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日蓮大聖人・池田大作

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終戦記念日を前にして  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  青春時代──なかんずく高校時代の思い出は、生涯、鮮明な映像となって、脳裏に残っていくものだ。ハイティーンといえば、ほぼ大人の判断力をそなえはじめながら、少年時代からの鋭い感受性がそのままつづいている年代だからでもあろうか。
 今年も、まもなく終戦記念日の八月十五日がやってくる。私の高校時代は、ちょうど終戦直後のことであった。
 戦争中、私の家は強制疎開にあい、その移った家も焼夷弾で焼かれてしまった。私自身、雨のごとく降りしきる爆弾のなかを、ふとんやバケツを持って逃げねばならなかった。小さい時から病弱だった私は、戦争中の貧困な食糧事情と過労のために胸を冒され、終戦の年には、最悪の状態にまでなっていた。四人の兄は、次々と戦地に取られていく──あとに残されたのは、老いた父母と、かよわい弟妹ばかりである。私は、高等小学校卒業後、ある近くの会社に勤めていたが、一家のいっさいの責任は、五男坊の私の肩にかかってきた。
 やがて終戦となる。その年の暮れ、最も頼りにしていた長兄の戦死の報を受けたのであった。その時の、父の、そして母の悲しみは、今も鮮烈に、胸に焼き付いて離れない。幸い、他の兄たちは、次々、戦地から引き揚げてきたものの、職も容易になく、暗い日々がつづいた。
 私が、今日でいえば高校にあたる東洋商業(旧制)に入ったのは、終戦直後の、まだ兄たちが引き揚げてくる前であった。日々の生活は苦しかったが、長い、辛い、戦争が終わり、ついに平和が訪れてきたのだ、という事実は、ただそれだけで、心の底まで明るい希望の光を与えてくれたものである。
 逆にいえば、それだけ戦争の悲惨さ、残酷さは、深刻なものだったといえる。もう二度とあんな愚かなことを、絶対してはならぬというのが、国民すべての気持ちだったといっても過言ではなかろう。
 学校には、机やイスも、満足なものはなかった。窓ガラスは破れ、冬は冷たい風が遠慮なく吹き込んでくる。電球も暗く、読むべき本も容易に手に入らなかった。そんななかで、青年たちは、清らかな厳しい瞳で、新しい知識を吸収するのに無我夢中であった。勉強らしい勉強もできなかった戦時中の遅れを取り戻すために、新しい時代に遅れないため、貪るように本を読んだものである。
 今思うに、戦争で、最大の犠牲を強いられるのは青年である。生き残ることができた私たちは、まだよい。戦争で虫けらのように殺されていった、幾百万人の人々の悲劇を二度と繰り返すようなことがあっては、断じてならない。
 安保再検討の七〇年をひかえ、戦争と平和の問題は、これからますます激しい論戦の的となっていくであろう。だが、その多くは憲法の法文解釈の議論であり、イデオロギーを背景にした権力抗争の一環となっている。私は、民衆の、あの戦争体験から目をそらさせ、利己のための議論に終始する一部の指導者の姿を見るにつけ、激しい憤りをすら禁じえない。
 憲法成立の事情がどうあれ、当時、二度と戦争はすまいというのが、全国民の実感であったことは事実である。そこに立ち戻ることこそ、私は最も現実的な論議であり正しい考え方だと思う。
 同時に、戦争を体験しなかった世代の人々にも、戦争の悲惨さと愚かさの実態を正しく伝え、ふたたびそれを繰り返させないよう努めることが、戦争を経験した者の、最大の義務だと思えてならないのである。

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