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日蓮大聖人・池田大作

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家庭はどう築くべきか  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  初夏が近づくにつれて、土曜、日曜になると、東京から郊外に出る高速道路は、どこも数珠つなぎの車の列ができる。街を歩けば、路面の駐車で道幅は半分になってしまい、その間をくぐり抜けなければ、人々は通れない。「都市は公害と事故の汚毒で満ち、コンクリートとアスファルトの、荒廃した原野になる」と『市民の交通白書』は訴えている。どうもショッキングな話だが、東京砂漠は、水道問題だけではなさそうである。 旺盛な──経済成長率と急速な都市化現象は、人々の生活を一変させてしまった。そればかりではない。まだとどまるところを知らず、人々が予想もしない方向に歩みつづけているといえよう。
 人は、文化的生活を願っている。だがその文化も、物質的な文化にのみ偏って発達してしまうと、人間の生活そのものが、ゆがんでしまうことになる。
 車の排気ガスですっかり汚染した都市の空気は、沈丁花の香りを失わせ、街路樹のプラタナスの葉の緑を奪ってしまった。人々が、窒息しそうな都会から逃れて、一日、郊外で楽しくレジャーの時を送りたいというのも、今では生理的な要求に近いものがある。
 高速道路の車の列にはさまれて、家族連れで、一台の車を移動家屋のようにして乗っている光景を、よく見かけることがある。
 子供がそれぞれ成長し、結婚すれば、親の家庭から独立して新しい家庭をつくる。これは、現代ではもう常識になっているといえよう。各自の主体性を明らかにし、人生に責任をもつ生活形態としては、きわめて自然だともいえる。
 こうした核家族と呼ばれる家庭は、これからますます多くなっていくにちがいない。そこには、新しい家庭の原理がつくられていかなければならないと思う。一軒の家庭には、昔は家風と呼ばれるものがあった。今さら、ここに古い家庭倫理をもちだして、それを押しつけてみてもなんの意味もない。だが、なんらの規範ももたぬ無軌道な家庭は、生活そのものを破壊してしまう危険があることも知らなくてはならない。
 そこで新しい家庭づくりにあたっては、もう一度、家庭を眺めなおして、お互いに生活のためのルールを発見し、それなりの設計図を描いてみる必要があるのではないだろうか。
 ここ数年来、百科事典の静かなブームが起こっているという。その種類も多彩である。多くは、子供のためにという人が多いが、経済的にも余裕ができたからともいえよう。また最近のベストセラーで、アッというまに異常な伸びをみせた本に、塩月弥栄子著の『冠婚葬祭入門』がある。これなどは、出版企画者のすぐれた着眼といえる。つまり生活習慣の情報化である。
2  かつての大家族主義の長所は、生活習慣の伝承であり、祖父母から父母へ、そして子供へと、一緒に生活するなかで長年の経験が受け継がれ、生活の知恵が知識として伝えられてきたことである。──姑は、嫁に家計の切りまわし、育児、冠婚葬祭にいたる社会習慣、煮物の味つけから漬け物にいたるまで、すべてを伝えた。
 核家族の一つの欠陥は、この世代の伝承に断絶をつくったことである。もちろん、そのために起こる家族の人間的複雑さは「ババヌキ」という表現でみられるように、排除されたにちがいない。けれども、同時に失ったものの大きさも考えてみなければなるまい。本を頼りに育児に専念することは、いかにも心もとないし、あまり人間的とはいえない。もっと生きた生活の知恵を取り入れる工夫をすべきであろう。
 新しい文化は、決して零から出発するものではない。貴重な経験と伝統の土台の上に、さらに積み上げられるべきものであり、家庭文化といえども、少しも変わるものではないと私は思う。
 家庭は、社会の最小単位であり、また社会の縮図である、とよくいわれている。ここで家族構成の基本型を考えてみると、夫婦と子供二、三人というのが標準であろう。そこには夫婦、親子、兄弟姉妹という、三つの人間関係がある。つまり、夫婦という核と、親子という世代のつながりと、兄弟姉妹という同世代のヨコのつながりによって、家族の構成ができあがっている。
 社会は、この人間関係の複雑な展開であるといえよう。血縁関係からいえば、祖父母、曾祖父母、子、孫、曾孫というタテの延長、伯父母、叔父母、甥、姪から姻戚関係にいたる幅広いヨコのつながりが広がっている。昔は、これらの人々が一緒に住み、集落をつくり、一族をなしていたのである。
 社会の変遷は、この血縁関係をいつのまにか、遠く散りじりにしてしまった。その行き来も自然疎遠になってくる。しかし、人間が社会から孤立して存在しえないために、自然に接する度合いの多い隣近所と生活の連帯感をもち、親密さを増してくる。「遠い親戚より近くの他人」とは、よくいったもので、家庭は、つねに社会とのつながりのうえに成り立っていることも忘れてはならない。
 もう一面からみれば、人間には、私的生活を欲する、強い、本能的なものがある。動物にも、自己の領域を侵されまいとする強い占有欲があるのと同じである。プライバシーを守りたいという人間の本源的欲求からいえば、複雑な機構をもつ社会になればなるほど、職場がオートメ化し、人間が部品扱いされればされるほど、人間性を回復しうる自己の領域は、家庭しかないと思うようになるだろう。その意味からも、マイホームの要求は、今後も消え去るものではないし、現代社会に対するせめてもの個人の挑戦であるかもしれない。
3  賢明な家庭づくりは、この二つの一見相反する要素を巧みに使い分け、組み合わせながら築き上げていかなければなるまい。家庭は、たんなる私的生活、個人の生活だけではない。
 一家にあって、主人一人が専横をきわめ、かつての家長制のように、妻も子も忍従を強いられるものであってはならない。親の権威にかぎらず、すべての権威が崩壊しつつある時代である。いよいよ親がばかにされるだけで終わってしまうであろう。 また、家庭は──たんなる合理的な共同生活というものでもない。経済的要求から出た共同生活体は、家庭以外にいくつかの例をみることができるが、そこでいつも問題になるのは、どこまで私生活的要素を容認するかということである。共同生活の失敗は、多くこの問題の処理から破綻をきたしている。ソ連のコルホーズ、中国の人民公社等の苦悩も、この関係の解決にあるとみたい。 ともあれ──家庭は、つねに前向きに建設されていくべきものであり、私的なことだからといって、安易な妥協や、わがまま放題の身勝手な環境にしておいてはならない。核家族化が進めば進むほど、そこには、新しいホーム・マネージメントを生み出していく努力がなされなければなるまい。
 たとえば、一人っ子の場合は、とかく甘やかされて、社会に出た場合、わがままな欠陥を露呈して苦しまなければならない。家庭のなかにあって、兄弟姉妹というヨコのつながりをもたなかったために、協調性を身につける訓練がなかったことが、そうした結果を招きやすいことになる。しっかりした視点をもった親ならば、早くからその点に留意し、よい友だちづくりをしていたであろう。
 家庭における時間と、労働の問題も改めて考え直さなければなるまい。家事は、従来、無報酬のために軽視されがちであった。だが、家庭の職業というものや、社会活動にとってエネルギー再生産のために、重要な役割を果たしているという評価がされはじめたのは、よい傾向だと私は思う。
 一家のなかで、主人だけが働いて、あとは食べさせてもらっているという考え方をやめ、立場こそ違え、平等に働いているのだという自覚のほうが、はるかに社会的な連帯感を養うことになっていく。子供が学校に通うことも大事な仕事の一つといえるし、おのおのの人格を尊重することにも通じていくといえよう。
 家庭経済のあり方も、早くから家族会議を開いて相談しあう習慣も、よい方法の一つであると思う。甘えればいくらでもお小遣いをもらえるような家庭と、一カ月のお小遣いを自分で配分して使うような習慣を身につけた子供では、社会に出てからの経済観念に大きな差がつくことになろう。
 家計簿をきちんとつけている家庭は、それなりに生活への工夫と努力がなされているとみるべきである。予算も立たず、生活費と商売の売り上げ金がゴチャゴチャになってしまうような家庭に限って、破綻が起こりやすいものである。
 こうしたけじめのある生活態度が、余裕を生み、健全な家庭を築いていく最高の方法といえよう。
 わが家の話になって恐縮だが、私は子供との約束は、どんなことがあっても守ることを一つの信条にしてきた。時間を守り、約束を守ることは、いつしかわが家のルールになっている。しつけということは、なにか叱って子供に押しつけるものではないと思う。
 立派な民主主義社会をつくるのは、高遠な理想や、むずかしい理論をいたずらにもてあそぶことではない。身近な家庭の、日常生活のなかで、一日一日築かれていくものだと私は思う。

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