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日蓮大聖人・池田大作

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人間としての価値ある生き方  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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4  常に前進する人生
 人生は最後の一瞬まで、建設の連続でありたい。この心構えを生涯もちつづけたかどうかが、その人の人生の価値を決定するといっても過言ではないと、私は思う。つねに人生の前進、つねに人生の成長をつづけていくことだ。そこにのみ若さがあり、人間としての尊さがあるであろう。その途上には、成功もあれば失敗もあろう。しかし、それは決して人生全体の決算ではない。その人の価値を決めるものでも、断じてない。成功が次の失敗の因となることは、しばしばあるし、逆にどんな失敗も、英知と努力によって次の大成功の原因にしていくことも可能なことである。
 昨今の世相を物語るものとして、離婚夫婦の激増があげられている。その内容を聞いてみると、夫婦の苦しい建設期を過ぎて、ようやく経済的にも安定したと思うと、夫が浮気を始めたといったような話が、じつに多いことに気がつく。新聞ダネになったり、家庭裁判所の世話になる事件の大半は、そうした状況の家庭であるようだ。これなども、一つの成功が、往々にして次の失敗の原因になるということの実例といえよう。
 古人は「塞翁が馬」のエピソードをもって戒めたりしたが、そのなかにひそむすぐれた教訓は「成功におごらず、失敗にくじけるな」ということで、古くさいありふれたお説教かもしれないが、人生に処する大事な心構えではないだろうか。
 ある場面で、無残な敗北を喫したとき、そこで屈することなく、次の成功への因に転換していくためには、逞しい生命力とすぐれた英知、そして忍耐力が要請される。この強い自己を建設することそれ自体が、人生の最も大切な課題といえる。
 “絶対的幸福”ということも、具体的にはこうした姿のなかにあらわれるものではないだろうか。絶対的な幸福だからといって、なにも苦しみや悩みがまったくないというのでは決してない。楽しいことばかりがつづく夢の世界でも、もとよりない。生きている人間である以上、喜怒哀楽があるのは当然である。だが、あくまでも喜怒哀楽に振りまわされ支配されるのではなく、波乗りを楽しむように、それを楽しんでいける境涯を“絶対的幸福”というのである。
 たとえば、若者が、険しくそそりたった、目のくらむような断崖に挑み、よじ登り、頂上を極める。そこにえもいわれぬ喜びと誇りを、彼はかみしめるのであろう。彼の若さ、力、そして技術、精神力は、困難を喜びに変えるのである。しかし、お年寄りや、力を失い、技術がなく、山登りが無理な人にとっては、それは、苦しみと恐怖以外のなにものでもなくなってくる。
 人生の幸、不幸という問題も、これと同じ原理なのである。力を失えばいっさいが苦しみとなるが、力さえもてば、いっさいを楽しみとしていけるものだ。「力」とは、その人自身の境涯である。
 どうか、人生の真の勝敗は、最後の一瞬にあることを確信して、この尊い自己の一生を、建設と成長と研鑚によって、真に価値ある毎日の連続にしていきたいものである。そして幸福に輝く一人一人であっていただきたいことを念願してやまない。

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