Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間としての価値ある生き方  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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2  幸福にも二種類ある
 人生の幸福には、大きく分けて、二つの種類がある。欲望の充足によって感ずる幸福と、生命自体の躍動、充実感による幸福とである。前者はつねに他に依存し、他者によって左右されるものであるから、これは“相対的な幸福”というべきである。たとえば、おいしいものを食べたい、素晴らしい車を手に入れたい、広い家が欲しい等々の欲望が満たされたとき、そこに人々は幸福を感ずる。しかし、それは必ずその対象によって決定される幸福である。しかも、その幸福感は決して永続するものではない。どんなにおいしいものも、満腹になればおいしいとは思わなくなってくる。満腹してもなおかつ、食べなければならないとしたら、かえって苦痛にさえなるであろう。また、どんなにおいしいものでも、食事のたびに同じものを出されたら、しまいには飽きてしまう。
 車や家についても似たようなことがいえると思う。手に入れた当初はうれしくて、いくらいじりまわしてもあきたらないような気がするのだが、一年、二年とたつと、もうそんな喜びはどこかへ消えてしまうにちがいない。なんとなく自分のものよりも隣の人のほうがよいように思えてくるものだ。そこでまた新しい欲望がわいてきて、その追求のためにあくせくと努力を重ねることになる。
 私はなにもそうした欲望の追求を悪いというのではない。それは、人間の本性であるとともに、人類文化の進歩と発展の一つの原動力であるからだ。ただ、それのみを究極の目標としていく人生は、決して本当の幸福を得ることができない、と言いたいのである。
 これに対し、自己にたちかえり、自己の成長と内的充実をめざす生き方、そして、生命の内奥からあふれる幸福感は、他によって左右されることはない。これを、私は“絶対的幸福”と呼びたい。
3  崩れない幸福を得るには
 真実の幸福は、自己の生命の内に築き、生活のうえに、また社会のうえに反映させていくものだ。幸福とは究極には、決して他から安易に与えられるものではない。当然それにはたゆまぬ努力が必要である。苦労もまたひとしおであろう。安易な妥協は許されない。他への依存を排していく生き方は、時には孤高でさえあるかもしれない。だが、人間としての深さと、誇りと気高さがそこにはあるであろう。
 もとより人間は、すべてさまざまな人や物との関係性によって生きている。それを拒絶して生命の存在は絶対にありえないことも当然である。だが、同時にその深奥の次元において、あくまでも孤独であり、それ自体は自立しているものである。親、兄弟、友人、恋人、あるいは夫と、さまざまな人々に囲まれて生活しているときには、それは感じられないかもしれない。
 しかし、思いがけない不幸に遭遇したとき、あるいは人生の終局にたどりついたとき、初めて人々はこの現実を、ひしひしと身に感ずるのである。人間としての真の幸福は、その一人となったときに決まるといってよい。
 こすられればすぐにはげて醜くなるメッキのような幸福ではなく、こすられればこすられるほど美しく光り輝く、真金のごとき幸福を築き上げていきたいものだ。妻として、母として、あるいは広く女性としての、さまざまな生き方や、それまでの幸福というものも、この地金に当てられた光の種類によってあらわれる変化相にすぎないのではあるまいか。メッキのはげた安物の地金は、どういう光を当てようと、にぶく醜い反射光しか出さない。純生無垢の黄金は、当てる光のいかんにかかわらず、美しい魅力あふれる輝きを示すものだ。
 では、人間として自己の真の建設のために、いったい何を心がけねばならぬのだろう、ということが問題になってくる。この点については、古代から思想家や哲学者がさまざまな回答を提供している。
 孔子の言う「仁、義、礼、智、信」や、キリストの「博愛」、釈尊の「慈悲」などは、その一例であろう。これらは、たしかに人間として、不可欠な大事な要件ではある。
 僣越ではあるが、私なりの結論を言うと、「全体人間たれ」ということになろうか。人生の深い英知、幅広い教養、そして人々に対する温かい思いやりをもった、幅の広い人であっていただきたい。忍耐、勇気、正義感を養うことも大事である。政治、経済、科学、教育などといった社会的問題への関心と、洞察力の養成も忘れてはならない。要は人生の広さと深さを求めて、どこまでも勉強し、努力することを忘れるな、ということである。
 ある一つの次元に自分の世界を決め、限界を設けて、そのなかに安住してしまうのは、みずからの篭にみずからを閉じこめるのと異ならない。その結果は視野が狭くなり、感情が偏頗となり、利己主義と保守主義と無気力に陥ってしまうことになるまいか。それは、人間としては退化である。
4  常に前進する人生
 人生は最後の一瞬まで、建設の連続でありたい。この心構えを生涯もちつづけたかどうかが、その人の人生の価値を決定するといっても過言ではないと、私は思う。つねに人生の前進、つねに人生の成長をつづけていくことだ。そこにのみ若さがあり、人間としての尊さがあるであろう。その途上には、成功もあれば失敗もあろう。しかし、それは決して人生全体の決算ではない。その人の価値を決めるものでも、断じてない。成功が次の失敗の因となることは、しばしばあるし、逆にどんな失敗も、英知と努力によって次の大成功の原因にしていくことも可能なことである。
 昨今の世相を物語るものとして、離婚夫婦の激増があげられている。その内容を聞いてみると、夫婦の苦しい建設期を過ぎて、ようやく経済的にも安定したと思うと、夫が浮気を始めたといったような話が、じつに多いことに気がつく。新聞ダネになったり、家庭裁判所の世話になる事件の大半は、そうした状況の家庭であるようだ。これなども、一つの成功が、往々にして次の失敗の原因になるということの実例といえよう。
 古人は「塞翁が馬」のエピソードをもって戒めたりしたが、そのなかにひそむすぐれた教訓は「成功におごらず、失敗にくじけるな」ということで、古くさいありふれたお説教かもしれないが、人生に処する大事な心構えではないだろうか。
 ある場面で、無残な敗北を喫したとき、そこで屈することなく、次の成功への因に転換していくためには、逞しい生命力とすぐれた英知、そして忍耐力が要請される。この強い自己を建設することそれ自体が、人生の最も大切な課題といえる。
 “絶対的幸福”ということも、具体的にはこうした姿のなかにあらわれるものではないだろうか。絶対的な幸福だからといって、なにも苦しみや悩みがまったくないというのでは決してない。楽しいことばかりがつづく夢の世界でも、もとよりない。生きている人間である以上、喜怒哀楽があるのは当然である。だが、あくまでも喜怒哀楽に振りまわされ支配されるのではなく、波乗りを楽しむように、それを楽しんでいける境涯を“絶対的幸福”というのである。
 たとえば、若者が、険しくそそりたった、目のくらむような断崖に挑み、よじ登り、頂上を極める。そこにえもいわれぬ喜びと誇りを、彼はかみしめるのであろう。彼の若さ、力、そして技術、精神力は、困難を喜びに変えるのである。しかし、お年寄りや、力を失い、技術がなく、山登りが無理な人にとっては、それは、苦しみと恐怖以外のなにものでもなくなってくる。
 人生の幸、不幸という問題も、これと同じ原理なのである。力を失えばいっさいが苦しみとなるが、力さえもてば、いっさいを楽しみとしていけるものだ。「力」とは、その人自身の境涯である。
 どうか、人生の真の勝敗は、最後の一瞬にあることを確信して、この尊い自己の一生を、建設と成長と研鑚によって、真に価値ある毎日の連続にしていきたいものである。そして幸福に輝く一人一人であっていただきたいことを念願してやまない。

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