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日蓮大聖人・池田大作

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母親の使命について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  尊い生命を守るもの
 誰人にとっても、母親は魂の故郷であり、生命のオアシスである。いかなる境遇にせよ、産まれ落ちたばかりの赤ん坊ほど、かよわい存在はない。この、なんの抵抗力も、生活力もない幼き生命を、強く、深い愛情で献身的に守り、育ててくれたのが母親なのである。
 私は、道学者めいた教訓を述べるつもりはないが、ただ、この世に厳然として生をうけ、一個の人間として人生を真摯に生きゆくものの一人として、母の愛のいかに深く、尊いかを痛感せずにはいられないのである。 あの戦争の最中──熾烈な前線において、幾百万の、恋を語り、青雲の希望に生きたかったであろう青年たちが死んでいった。その時、彼らの大部分が、死のまぎわに叫んだ言葉は「お母さん!」の一言であったという。天皇を絶対化し、そのもとに徹底した軍人精神をたたきこまれたはずの“神兵”も、結局は、一人の母の子であったわけだ。
 フランスの文豪、ユゴーの「女は弱し、されど母は強し」という名言は、あまりにも有名であるが、こうした母親というものの特質を見事に喝破しているといえよう。
 女性の一生において、子を産み、育てる母親の仕事ほど、苦労の多いものはあるまい。さらにこれほど崇高にして、誇り高き任務もないであろう。また、そこに大きな喜びと幸せがあるものと思う。
 逆に、女性の最極の不幸は、こうして育てあげたわが生命の分身を、不慮の事故や戦争などによって奪いさられることである。私は今でも、長兄の戦死の知らせを受け取ったときの母の悲痛な姿が、忘れられない。母は私たちの前でさえ、涙を見せなかった。だが、急に老け込んだ。
 私には母の悲しみが、痛いほどわかっていた。戦争の最大の犠牲者は女性であり、なかんずく母親であったろう。尊い母親たちを、二度とこの悲しみに陥れては断じてならぬ。そのためには、どうしても、恒久的な世界平和を確立しなくてはならない。また、それには、生来の平和主義者である女性の考え方や力が、どれほど大きい影響を与えていくことであろうか──。
 かつて、パン・ヨーロッパ主義の提唱者であるクーデンホーフ・カレルギー伯と懇談したとき、談たまたま婦人問題におよび、婦人の特質は平和主義者であるということについて、意見が完全に一致した。私の発想の起点は、あの時の母にあったといってよい。
2  母親こそ最高の教師
 母親の子供に与える影響の大きさは、計り知れぬものがあるようだ。ドイツの偉大な教育者フレーベルは「子供は五歳までに、その生涯に学ぶべきことを学び終わる」と言い、英雄ナポレオンは「子供の運命は、つねにその母がつくる」とさえ言う。
 最近、大脳生理学においても、人間の大脳は、五歳ぐらいまででその大部分が完成し、その人の人格の基礎は、そこで決まってしまうといわれている。その期間、子供にとって、最も密接に関係する存在こそ、まさに母親なのである。つまり子供の生涯にわたるいっさいを決定していく教師でもある。
 子供は言わば純白の布地だ。母親の教えることや、しつけはもちろんのこと、なにげない振る舞いにいたるまで、そのまま敏感に吸収し、いつのまにか染めあがっていく。古くより、子は母親の鏡といわれてきたが、いったん映った像は容易に消えず、生涯にわたって残っていくところに、この鏡の厄介さがあるようだ。
 では、子供を育てるにあたり、母親はどういう心構えで臨むべきか。一言で言うならば、それは、主体性を重んずることだと私は思う。
 しばしば、母親の愛情の献身的な一面が強調されるあまり、自己を捨てた愛情が美しいとされる傾向がある。子供は、母親にはどんなわがままを言っても、聞き入れてもらえると考えてしまう。もし、世の中すべてが、そんなものだと甘え根性をもたせる結果になったら、それは、長い厳しい社会の中の人生行路にあって、子供にとっては不幸であろう。子供の幸せのためと思って苦労したことが、かえって大きな目でみれば、不幸の原因をつくっていることになりかねない。
 こづかいや、おやつの与え方にしても、ねだって泣けば与えるというのではならぬだろう。こづかいは一日にいくら──おやつは何時にどれくらい、というぐあいに、キチンと決めることが大事ではなかろうか。
 それは、母親自身の主体性の問題である。子供は、決められた枠のなかで、それを、どのように生かそうかと知恵を働かせる。一日のおこづかいを使うのをやめ、貯蓄することも覚えるであろう。そこに子供の主体性の確立がなされていく。
 さらに、子供がある程度の年齢に達すれば、庭の草刈りや、屋内の清掃、お使いなどについて報酬を決め、勤労の報いとしてこづかいを得るという方式にするのもよいであろう。これは、決して親のエゴイズムではなく、子供に働くことの喜びを教え、生きた人生の知恵をはぐくむことにもなるからだ。
 総じて、わが国の伝統的な育児法は、幼児期に野放図なまでに甘やかすところに、欠点があったといわれている。加えて、学歴偏重による厳しい受験事情が、教育といえば、知識の詰め込みだけとする一種の錯覚を起こさせているようである。
 母親は、家庭が最も重要な教育の場であり、自己が最高の使命ある教師であることに、もっともっと強い自覚をもつべきだと思う。
 少なくとも、現状では、学校と教師は、子供の全人生からみれば、その一分野について責任をもってくれるにすぎないともいえまいか。子供の一生を支えていく全人格の基盤は、じつに母親による家庭教育にかかっていると言わざるをえなくなっていく。
3  父親は甘く、母親は厳格に
 ちなみに、父親のあり方と、母親のあり方とを対比しておくと、父親は、子供を甘やかすのがよい。母親は、きちっと締めるべきところは締め、時には厳しく叱ることが必要である。口うるさく、厳格な父親からは、子供は離れていってしまうものだ。だが、母親は、どんなに厳しくとも、それが愛情から出たものである以上、子供はどこまでもついていく。それだけ母親の吸引力は強いともいえよう。
 父親は子供たちの味方になることだ。とくに男の子に対しては、兄弟のような立場でいくことが、一家団欒の秘訣である。そして、いざというときには、厳然と力を示すことである。子供たちは心から親愛の念と同時に、深い尊敬の念をいだくことであろう。
 母親に関して、子供の最も嫌うことは、愚痴をこぼすことではなかろうか。愚痴っぽさは、性格からくるものかもしれぬが、努力によって、かならず変えられるものである。つねに毅然とした態度を忘れず、イエスとノーをはっきりし、悩みに直面したときは、それをいかに乗り切るかを、強く考えることである。 愚痴は字の示すように、知恵を働かせ、解決しようと努力するより──困ったという感情が先にたち、嘆くことから出たものであろう。嘆きを人に聞かせても、いくぶんかは心の慰めにはなるが、事態の解決には少しも役立たない。愚痴を聞かされているほうは、やりきれぬ気持ちになってしまう。
 人に好かれ、子供たちに慕われるには、決して愚痴っぽくなってはならない。どんな悩みに対しても若々しく、敢然と取り組んでいくことだ。根底的にはそれがたとえ夫にせよ、子供であるにせよ、浅い頼り根性を捨てることである。
 自分の悩みを解決するのは、自分以外にはない。もとより、一つの家庭、一つの社会を構成している以上、互いにつながっており、手助けをしてもらわねばならぬことも当然あろう。しかし、主体者はあくまで“自分”なのだという自覚が大切である。
4  子供とともに絶えず成長を
 同じことは、子供に対する接し方についてもいえる。子供といえども、独自の個性をもった生命の主体者である。一個の平等な人間としての尊厳を認め──そのうえに立った対話が行われなければなるまい。
 いつまでも子供だと思っているうちに、いつのまにか大きくなってしまい、自分は、はるか昔に置きざりにされているかもしれぬ。
 幼児の時代から少年時代へ、少年時代から青年期へと、子供は年を追って見違えるように成長していく。ところが、その成長も、あまり身近でいつも接していると、意外に気づかぬものだ。かえって、少し離れ冷静に眺めている人のほうが、正しくとらえていることが珍しくない。
 要は、成長していく子供の姿を正しく認識し、それにふさわしい対話を持続していくことである。そのためにも、母親は、つねに自己自身の成長を図ることが大切であろう。
 家事に、育児に、母親の仕事はたしかに多忙であろう。だが、電化ブームであらゆる労働が軽減しているし、いわゆる核家族化で主婦の仕事は、かつての大家族制に比べれば、かなり簡易になっていることも事実のようだ。意欲さえあれば、時間をみつけだし、自己の成長のためにあてることも可能なはずである。
 女性にとっていつまでも若々しく、美しくありたいというのは、万人共通の願いであろう。そうした美しさの源は、決して化粧や衣服などの表面的なものにあるのではないようだ。みずからに厳しく、未来に希望をもち、つねに成長を願い、充実した日々を過ごしゆく生命の誇りともいうべきものこそ、いつまでも衰えぬ美しさの秘訣なのではあるまいか。
 女性の美醜は、生まれつきの容貌ではなく、内面から発する生命の輝きであり、人生に処する態度のあらわれで決まる。親の責任ではなく、自分の責任になるといってもよい。 母親になったからといって、──自己の成長を忘れ、所帯づかれして、いたずらに老けこんでいくのでなく、つねに溌剌と若々しく、子供にとっても誇りとされる母親であってほしいと思う。
5  “教育ママ”への忠告
 最後に、これはすでに述べたことと重なる面もあるが、よく問題になる“教育ママ”のことに関して一言したい。
 たしかに、子供にとって母親の与える影響は、計り知れぬほど重く大きいが、それは決して子供の自主性、主体性を奪う結果になってはならない。子供は無限の可能性を内に秘めているが、それを開いていくのは、ほかならぬ子供自身といえるからである。
 世に“教育ママ”といわれるものは、子供を偏愛するあまり、母親が自分の夢を押しつけ、自分の描いた型にはめこもうとする。これは、子供にとっては、不幸な抑圧でしかないだろう。そのため、反発から性格が変わったり、不良化する場合も、しばしば見受けられることだ。
 母親はどこまでも子供のよき理解者であり、親切な相談相手であり、そして、すぐれた導き手であってほしい。そして、明るく正しい、伸びのびとして、次の時代の担い手を育てあげていただきたいと願ってやまない。

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