Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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友情について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  女学生やハイティーンのお嬢さんたちが、楽しそうにおしゃべりをしながら、道を歩いていく。その屈託のない笑い声、底ぬけの明るさ……周りじゅうが、花が一度に咲いたようになる。
 そんな姿を見て、大人たちは、すでにはるか昔に過ぎ去った青春の日々を思い出し、限りない羨望の念にかられているにちがいない。
 なかには、打算的なかけひきと、醜い憎悪に明け暮れるわが身を振り返って、心洗われる思いでいる人もあるだろう。
 友情とは、不思議なものである。心と心のつながった本当の友情には、猜疑心や利己心は微塵もない。これほど純粋で、美しい人間関係は、他にはない。
 しかし一面、友情は壊れやすいものである。少年時代、青年時代と振り返ってみたとき、幼少のころからの友情を、今もなお保ちつづけている人が、どれだけいるだろうか。小学時代の友だちと中学時代の友だちはガラリと変わっているにちがいない。中学時代と高校時代もまたしかりである。
 人は環境が変わるたびに、友だちもまた変えていく。付き合った友だちの数を総計すれば、相当の数にのぼるが、一貫して友情のつづいている例は、ほとんどの場合、皆無であるか、きわめて稀であろう。
 よく、女性の場合、本当の長つづきする友情はほとんどありえないなどというが、それは男性の場合も同様である。少なくとも、このことは、決して女性の本性に関連する問題ではなく、環境の変化によるのである。
 男性の場合は、人生の半分以上が職場であり、その職場を替えることは稀であるから、就職してから人生の幕を閉じるまで、友だち付き合いをする場合がある。ところが、女性は結婚によって家庭のなかに閉じこもってしまうと、独身時代の友だちとも自然に疎遠になり、そのうちに、生活の苦労や家庭の雰囲気のなかで、心情的にも独身時代とは違ったさまざまな変化が起こる。
 したがって、十何年ぶりかに、かつての親友同士が会ったとしても、お互いが相手についていだいていた若き日のイメージは、あまりにも変わってしまった相手の現実の姿に接して、みるも無残に打ち砕かれてしまうことがある。会ったら、こんなことを話そう、青春の日のあの友情を、もう一度よみがえらせよう……などと思っていたのが、最初のショックで吹っとんでしまい、友情はこんなに色あせたものとなったのか、などと、ひそかな感傷をおぼえることになりかねない。
 要するに、生命のリズムがまるで違ってしまっているのである。かつては美しい協和音を奏でた二人の生命が、違った環境のなかで、違った人生行路を歩んだ結果、今では久しぶりに会っても不協和音しか出さなくなってしまったのである。
 もしも、二人の付き合いが、この十何年間ずっとつづいていたら、どうであったろうか。仮に接触がつづいていたとしても、かならずしも友情がつづいていたとは保証できない。
 真実の友情は、利己主義や独善の支配している人間のなかには芽生えない。たえず、自分を反省し、成長を図り、同時に、友を思い、時には自分を犠牲にしても相手の幸福を願っていくところにこそ、真の友情はあるといえよう。
 男女を問わず、大人の世界に友情が育ちにくいのは、人生の波にもまれていくうちに、いつしか利己主義や独善主義におおわれた、醜い生命となってしまったからである。大人の世界で、一見、友情とみえるものも、一皮めくると、打算と憎しみを本体とする利用根性でしかない場合が多い。
 古来、ある人の人格を知りたいと思ったら、その友だちをみればよいといわれる。人の心の内は目に見ることはできない。だが、この心は、かならず、なんらかの形であらわれ、影を映していくものだ。
 いわば友だちはその人の心のあらわれでもあるとともに、逆に、その人の心の変化にも強く影響を与えているものなのである。
 今や、女性は結婚してしまうと、家庭のなかに閉じこもり、考えるのは夫のことと子供のことで一杯で、友だちがいなくなってしまうなどという時代ではない。生活の合理化によって、女性が外へ出る道は大きく開けている。
 利害の打算や、醜い憎悪、嫉妬に汚されない、女性同士の美しい友情の花を咲かせ、生涯、友情を保って、みずからの成長を期していただきたい。そして男性の醜い――もちろん例外もあろうが――人間関係による不信と憎悪のこの世界を、女性の真の友情による信頼と調和のリズムで包容し、転換していくことはできないものかと、これは私のひそやかな夢でもある。

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