Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

趣味について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  趣味というものは、言わば人間生活の潤滑油である。趣味のない人には、潤いも、人間的な幅も、心の豊かさも感じられない。ある意味では、日常の仕事のなかよりも、ずっとその人らしさが、趣味のなかにあふれているともいえる。仕事によってその人の能力があらわれるとするならば、趣味によってその人の独特の風味、風格がにじみでるものである。
 ある人は、伝統的な古風なものに魅かれ、ある人は、近代的なセンスのなかに自己を生かしていこうとする。また、ある人は情緒的な豊かさを求め、ある人は、勝負の世界における力量感に、言いしれぬ喜びを感ずるであろう。むろん、多くの場合、一人の人間がいくつかの趣味をもっている。人間というものは、決してこうだと割り切って考えられる存在ではない。時には、この人がと思われるような趣味をもっている場合もある。だが、それでもなお、その選択のなかに、おのずとその人の持ち味があらわれていることも事実のようである。
 趣味というものに理屈はない。かならずしもなんらかの自己の目的と合致しなければならないというのでもない。言うなれば、趣味とは、自分の世界ができることの喜びであり、それ自体が楽しみなのである。
 しかし、いかに趣味が大切だからといって、それが生活の破壊に通じ、人に迷惑を及ぼすようなものであってはならないと思う。よく趣味におぼれるということがいわれるが、もはや、これは趣味の範囲を超えているのである。生活の土台あっての趣味である。趣味のために生活が破壊されるとなれば、それは、主体性なき本末転倒の愚行と言わざるをえない。
 趣味に本当の喜びを感ずるのは、自分がやるべきことを立派にやりぬいているときである。それまでの緊張感をちょっとした変化で和らげ、新しい活力の源泉となっていくような趣味は、最も充実したものであろう。言わば、趣味という醍醐味は、ここにあると思う。
 初めに述べたように、趣味のない人には潤いがない。だが、趣味におぼれる人は、趣味をもつ資格がないといえる。ともに、心の狭さ、弱さの反映にほかならないからだ。
 趣味といっても、なにも特別なものを求める必要はない。自分らしく、自然のなかに築いていくもの、これが尊いのである。さりげないなかに、また身近なところに趣味の世界はあるものだ。虚飾のための趣味は、きざに見える。虚栄のため、見栄のためというなら、趣味などないほうがましといってもよい。
 趣味は豊かな心の泉である。その泉のなかより、自然にわきいずるものが尊いのである。また、趣味は、人間性の美しい色彩でもある。平凡のなかに、キラリと輝く人間性――ここに真実の美しさ、気品があり、趣味の真髄があると、私は思う。
 私も趣味の喜びに心を魅せられる一人である。音楽や、絵や、詩は、私の心を深い感動で潤してくれる。スポーツも好きだが、元来体が弱いので、激しい運動はできない。若い時には卓球を少しやったが、それも以前ほどできない。それでも時折、青年たちとソフトボールやバレーをやると、なにかしら生命のはずみを感ずる。
 なかでも、音楽は、私に限りない慰安を与えてくれる。若いころは、苦闘の時代であったせいか、ベートーベンの『運命』などが好きだった。一枚のレコードの盤がすり減ってしまうまで鑑賞したことも、よき思い出の一つである。現在では、むしろ宮城道雄の琴の音楽をよく聴いている。一日の活動を終え、一人静かに、美しい琴の音色に耳を傾けるときに、私は、いつのまにか、音楽の世界に彷徨しているのである。ふとわれにかえったときに、ぐったり疲れた身体に、こんこんと新鮮な活力が蘇っているのである。
 私にとって、趣味は、生活からかけ離れた存在ではなく、むしろつねに生活のなかにあって、自己を満たしてくれるものである。私は、趣味というものは、これでよいと思っている。あまりにも平凡な趣味、だが、私はこれをかけがえのない宝として、時には胸中に秘め、時には自分の生活の場に取り出しては、楽しんでいるのである。
 私はあなたに、なにか新しい趣味をもてとは言わない。あなたにはあなたの趣味がある。それを、そっとはぐくみ、伸ばしていってほしいのである。
 よく“自分には趣味がない”と言う人がある。それは趣味がないのではない。厳密に言えば、自分の趣味に気づき、それを楽しんでいく、心のゆとりがないからではあるまいか。
 私は、あなたらしい、ささやかな趣味をもてと願っている。きっと、それは、生活の憩いのオアシスとして、いや、人生のオアシスとして、ここに美しい生命の緑をもたらしていくにちがいない。

1
1