Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

美しさということ  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  女性にとって、若いということは、それだけで、素晴らしい宝石を持っているようなものだ。瑞々しいというか、初々しいというか、若い女性は、何も飾らずとも、それだけで美しいものである。
 多くの女性に会って感ずることは、女性の真の美しさは、化粧や、アクセサリーや、服装だけで決まるものでは決してないと思う。もとより、それらも美しさを引き立てるための、大事な要素であることにはちがいない。しかし、美しさの本体は、もっと己自身の生命の内奥にあり、そこから輝き出るものではないだろうか。
 最近は、テレビやマスコミによる情報過多のせいか、多くの女性が、ただ、その時々の流行を追うのに汲々とし、せっかくの美しい素質をもちながら、台なしにしてしまっているような気がしてならない。
 さまざまな雑誌の写真やテレビの映像を見て、自分もあのような服装をすれば、あのように美しく、カッコよくなるだろうと思うのは当然ともいえるが、錯覚のほうが多いのではなかろうか。
 人は、それぞれ、その人にしかない美しさをもっている。桜は桜らしく、スズランはスズランらしく、痩せた人は痩せたなりに、太った人は太った人なりに、独自の美しさがある。太っているからといって、痩せなければ美しくなれないと思い込み、身の痩せる思いをして努力するが、――心の痩せ細り方に反して、体のほうは、一向に痩せてはくれない。
 自信をなくし、よけいな気苦労をするから、もともと自身がもっている美しさを、それだけ損なう。そういう顔を鏡に映して、ますます自信を喪失し、さらに美しさを損じていく。
 この悪循環を断ち切るには、なんといっても、自分に自信をもつことである。美しさをよそに求めるのではなく、自分のなかに捜すことだ。自分の美しさのポイントはどこにあるのか、それを発見し、その自分の美しさを生かすには、どうすればよいかを研究することだと思う。
 しょせん、自分はどこまでいっても自分であって、絶対に他人にはなれないのだ。中国の故事に、絶世の美女が、なにかのことで顔をしかめたのが、それがまた、たとえようもなく美しかったので有名となった。それを聞いた醜い女性がマネをして顔をしかめたところ、いよいよ醜くなり、人々の笑いものになった、という話がある。
 自分を美しく見せたいという女性の欲望は、いつの世にも変わらぬものであろうが、美しく見せるにはどうすればよいのか、という知恵は、時代の進展とともに、もっと進んでもよいのではなかろうか。
 さらに私は、女性の本当の美しさは、もっと内面の、生命それ自体の美しさにあることを強調しておきたい。
 表面だけの美しさは、たしかに年齢によって制約されることは、誰人もまぬかれない。だが、生命それ自体のもつ美しさは、生涯、磨けば磨くほど美しさを増し、年をとればとったなりに、その美しさを発揮していくことができよう。その生命自体の美しさが、同時に、表面にあらわれた美しさに反映し、二十代には二十代なりの美しさ、三十代には三十代なりの美しさ、四十代には四十代なりの美しさとしてあらわれてくるものである。
 では、その生命自体の美しさとは、何によって決まるかといえば、――私は、女性らしい心の優しさ、純粋さ、広い教養につちかわれた英知、正しいと信じたことについては、一歩も引かないシンの強さ、また、健康、福運などであろうと思う。
 よく、若い時は、目のさめるように美しかった人が、結婚し、子供が生まれ、家庭の苦労を重ねていくうちに、見るかげもないほどやつれ、変わってしまったという人をみかける。
 その反対に、若い時は、さほど目立たなかった女性が、年齢を重ねるにつれて、容色が衰えないばかりか、内側から輝きでるような美しさを増してくるという場合もある。
 女の一生という、広い視野に立ってみれば、美しさというものも、決して短距離競走ではない。死の瞬間までつづくマラソン競走なのである。この長距離競走の基礎づくりをするのも、青春時代のこの時期の大事な仕事であろう。若さとともに燃え尽くしてしまう、線香花火のような美しさばかりを求めるのでなく、青春を謳歌するとともに、一生、燃えつづけていく美しさの基盤を、しっかり築いていただきたいものだ。

1
1