Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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結婚について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  町をゆくと、あちこちの結婚式場の前で、いま式を挙げてきたばかりの、幸せそうなカップルを見かける。
 これから新婚旅行に出発するところであろう――初々しい花嫁さん。その横に、頬をうっすら紅潮させた花婿さんが立っている。いつ見ても、ほほえましい光景だ。私は、そうした情景を見るたびに、二人の幸せを心から願わずにはいられない。
 結婚は、女性にとって第二の人生であろう。この第二の人生は、その前の人生が幸せであったから、そのまま第二の人生も幸せになるとはかぎらないし、また、結婚前が不幸だったから、そのまま不幸の人生がつづくともかぎらない。第二の人生は、二人にとって、なかんずく女性にとっては、文字どおり新しい幸か不幸かへの出発でもあろう。
 それだけに、結婚は慎重のうえにも慎重に進めなければならないと、私は思う。多くの女性が、いわゆる適齢期を迎えると、それだけで焦ったように結婚していく。――こんなことでいいのかと、他人事ながら不安を感ずるような例もしばしば見受ける。
 なかには、悪い男の甘言にのせられ、ひどい目にあっている女性も少なくないようだ。そうした失敗も、結局は焦りが原因しているといえないだろうか。
 結婚は、決して年齢によって決まるものではない。適齢期にスムーズに結婚生活に入ったからといって、その人がかならずしも理想的な家庭を築いているとはかぎらない。適齢期をはるかに過ぎて結婚した人でも、夫の愛情を一身に受け、周囲からも温かく見守られて、幸せな家庭をつくっている例はたくさんある。
 また、結婚するにあたって、家柄や、財産、地位、名声などを必要以上に気にする人がいるが、これらも結婚の決定的な要素ではない。これらをうるさく言うのは、当人たちよりも、むしろ周りの人々であることが多いようだが、時代錯誤もはなはだしい。希望多い、人生の幸せの芽を、そのような思いやりなさで摘み取ることがあっては、絶対にならぬと思う。
 毎日の新聞や雑誌をにぎわせている有名人の結婚、離婚の記事をよく見るがよい。豪華なホテルの宴会場、何百人もの客、背よりも高いデコレーションケーキを切る二人……。見るからに幸せそうだ。だが、それから半年もたたぬうちに、不和だ、離婚だと書きたてられている。たんなる噂の拡大なのか、あるいは、事実、不和なのか、部外者にはわからない。しかし、こうした有名人の結婚生活が、多く破綻の憂き目をみていることは、否定しようのない事実のようだ。
 結局、最も大切なものは、二人を結びつける強い愛情であろう。強い愛情とは、盲目的ということでもなければ、一時に燃え上がる烈しい愛情をいうのでもない。
 結婚生活は、どちらかが死ぬまでつづくものだ。少なくとも、それを前提としたうえの、二人の結びつきが結婚というものではないだろうか。してみれば、その愛情は生涯につづく息の長いものでなくてはならない。
 また、二人で新しい家庭を築き、子供を産み、育て、社会的にも一家として責任を負うものである以上、たんなる感情のうえだけの結びつきでなく、理性的な判断のうえに立っての相互の結合でなくてはならないであろう。
 自分の愛する人が、一生を託するにふさわしき人であるかどうか、たんなる一時的な情熱だけで、長つづきしない人ではないかどうか、二人で仲良く、力を合わせて家庭を築いていけるかどうか。あらゆる角度から慎重に考え、判断を下していくべきであろう。
 そうした、あらゆる条件を考慮したうえで、もし、互いの愛情が充分に強いものであり、自信もあり、人々からも祝福されるものであったならば、堂々と胸を張って結婚にゴールインするのが正しい。
 しかしながら、このゴールは、同時に、新しい、より責任の重い、苦労も多い、第二の人生のスタートでもあろう。そこには、さまざまの苦難や悩みが待ち受けているかもしれない。恋愛時代には知らなかった一面を、相手のなかに見いだすこともあろう。
 この時に、深い愛情と理解をもって、互いに励まし合い、助け合っていくことが大切だ。ともに手を取り合って、一つ一つの苦難を乗り越えることによって、本当の愛情が生まれるともいえまいか。そうした試練をへない愛情は、それがいかに純粋で、烈しく、美しいものであっても、まだ、磨かないダイヤの原石に等しいものであると言いたい。

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