Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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愛するということ  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  愛するということは、人間というべきものの本然の姿であると思う。いかなる人でも、生きている以上、そこには愛の鼓動がある。愛するゆえに希望があり、喜びがあり、また、苦悩も悲しみもあるのではなかろうか。愛とは、言わば生の証である。
 シラーは「愛の光なき人生は無価値なり」と叫んだ。まことに、愛を失った人生は生ける屍であり、砂漠のごとく不毛であり、コンクリートのように冷たい。そこには、生の謳歌などはなくなってくる。
 今日まで、愛という言葉ほど多く語られた言葉はあるまい。多くの哲学者がこの実像を探り、また多くの文学作品が、愛をテーマに洪水のように生まれてきた。これほど生活の奥深く、生命の奥深く根を下ろした言葉は他にはないかもしれない。
 たしかに、愛という言葉には、人々を魅惑する美しい響きが込められている。しかし、その愛とはいったい何であろうか。私は、心理学者ではない。したがって、それ自体を分析し、考察しようという気持ちはないが、ただ、愛する、ということの意義を、もう一度、あなたとともに確かめ合っておきたいのだ。
 ある人が「愛は生命の花である」と語った言葉を記憶している。まことに、愛とは、生命の大地に咲き薫る花である。胸中に燃ゆる美しき火でもあろうか。あるいは、人間讃歌の歌声であろうか。
 親子の愛、夫婦の愛、恋人同士の愛、友愛等――さまざまな愛があろうが、そのなかに流れゆくものは、いつも生命と生命の温かいふれあいであるのだ。時には激流と激流との衝突のごとく、時には恍惚の酔いのごとく、そして、時には春風のごとく、小川のせせらぎのごとく、愛は、豊かな人生の調べを奏でている。さまざまな人間模様がつねに描かれゆくのも、まさに、この愛ゆえではないだろうか。
 しかし、反面、人々の求める美しい本当の愛が、きわめて稀であることも事実のようだ。淡雪のように、すぐに消えゆくこともあれば、悪夢か、熱病のように、うなされる苦悶の愛もある。また、激しい衝動のあとに、わびしい破綻があることも、あまりにも多い。しかも、愛の破壊のあとには、木枯らしのような憎悪の旋風が、すさまじく吹き荒れることだってある。愛の渇きは愛のあがきとなり、時として、人々を奈落の底に突き落とす場合もあろう。憎悪と嫉妬を、まき散らす偏愛さえ、世に充満している昨今である。
 愛の、美しい響きとは逆に、どうして現実は、このように愛の破滅が多いのであろうか。愛とは、こよなく美しく、こよなく尊いものではなかったのか。
 私は、このような愛には、何かが欠けているように思えてならない。それは、一つには、愛の根本に、深い信頼の絆がないからであり、無意識のうちにも、自己のエゴイズムが支配的になっているからではないだろうか。もう一つは、これと関連することであるが、自己を生かし、他をも生かしていく、創造の愛ではないからではなかろうか。
 愛は、決して定型化された人間関係ではない。相互の信頼を根本に、つねに建設し、創造していくものであると、私は考えている。
 ともあれ、愛は、決して過去のものでも、現在の刹那だけのものでもない。未来に向かって、永遠に築いていくものであろう。信念のない愛は、あさはかな愛であり、創造なき愛は、溺愛にすぎない。
 ともに、当事者同士、人間として信頼しあい、寛容と理解のなかに、――互いに啓発しあい、創造しあっていくことが、最も大切に思えてならぬ。そのなかに愛は芽生え、成長し、やがて生涯に崩れぬ真実の愛となって、人生を有意義に、美しき色彩をもって飾っていくにちがいない。
 さらに、若い方々に申し上げたい。それは、愛というものは、人間の内から発する真実の告白であるということだ。たんなる言葉だけの愛、あなたを利用して自己を満足させればよいといった仮面の愛は、見破っていかねばならない。女性は、愛の言葉に弱いのかもしれぬ。だが、決してささやきだけに酔ってはならない。確固たる主体性を確立して、人生の最大の幸福のために、本当の愛というものをつかんでほしいものだと思う。
 虚栄や見栄にのみ追われ流されていると、往々にして、真実の愛から目をそらせてしまうものである。若き皆さんの愛がすくすくと伸びゆくことを、私は心より念じている。

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