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日蓮大聖人・池田大作

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就職の哲学  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  就職試験のシーズンを迎えた。
 就職は厳しい社会に向かっての新しいスタートといってよかろう。これまでの人生は、その準備の段階であったといってもよい。学生時代に、優等生であった人も、劣等生であった人も、同じく「社会」という新しいレースのスタートラインに立ったのである。
 もとより、同じラインといっても、現実には中卒、高卒、大学卒と条件の違いがあることも否めない。とくに官庁など特定的な職場においては、学歴や学閥による厳しい差別が残存していることは周知のとおりである。しかし、「自分には学歴がないから、一流大学出ではないから、職場において差別される」――そうしたコンプレックスをもって、この人生を苦しんで生きていくとしたら、それは、憐れという以外にない。
 人の一生は、どういう仕事をしたか、そしてまた、自分の選んだ仕事のうえで、どれだけの功績を残したかによって決まると思う。要は、自分のありったけの力を仕事にぶつけたか、そして、生命を完全に燃焼させて、その時代、その社会に自己の燃焼のエネルギーによっていかなる利益をもたらしたか、ということではないだろうか。
 したがって、この就職という問題を考えるにあたって、なによりも大事なことは、職種と職場の選択である。それを考える基準は、自分の特質を存分に生かし、発揮していけるかどうかということでなければならない。
 初任給がいくらであるとか、会社の名が通っているとかいないとかいった、目先の利益やうわべのカッコよさだけを基準にしていくべきではなかろう。
 本当の仕事の喜びは、自己の血と汗の苦闘によって勝ち取られるものであり、虚栄や虚偽のなかには、生命の輝きはない。人生の真実の勝利もない。自分がそこに全力を打ち込んでいける仕事こそ、生涯の生きがいであり、そしてまた、勝利であると確信すべきである。
 このさいに、自分というものをしっかり見つめ、両親や先輩、友人等の意見も充分に聞いたうえで、最も自分にふさわしいと思う仕事を選ぶことである。
 そして、その目標が決まったら、入社試験の関門を突破するために、全力をあげるべきである。
 「青年よ、大志を抱け」という有名な言葉がある。企業間の激しい競争のなかにあって、一見使いふるされたかにみえるこの言葉が、今また新しい意味をもちはじめているようにも見受けられる。
 事実、いくつかの会社で、青年社員にこうした呼びかけが行われている例もある。それが、社会の全般的なムードになりつつあることも否定できない。
 青年というものの特質からいっても、若者は大きな理想をもつべきである。理想なくして青年の意義はない。だが、それには、かならず周到な用意と、地道だがたゆまぬ努力とがともなわなければならない。就職にさいしても、これから述べる職業人になってからの人生においても、すべてこの原則は共通であろう。
2  今、就職試験を受けようという人たちにとって、職業人となってからの話は、時機尚早のように思われるかもしれない。しかし、決してそうではないと思う。
 オリンピックに出場するような実力ある選手は、つね日ごろ、猛烈な練習を繰り返しているであろう。しかし出場が本決まりとなったその日から、さらに激烈な練習に入るにちがいない。
 極端なたとえで恐縮だが、職業においても、精神は相通ずるものではなかろうか。
 とくに、競争が激化し、いわゆる“猛烈社員”をめざして社内特訓が流行しようという現在、なんの心の準備もなく、入社の時を迎えるのは、みずから敗因をつくっているのと同じといえまいか。
 自分の選んだ職業にとって最も必要な知識は当然のこと、社会人としての常識なども今のうちから身につけておくことは、大切なことである。
 よほど専門化された職業であっても、どういう知識がどのように役立つかもしれない。ベーコンの言うごとく、まさに「知は力」なのである。
 また、最近の傾向として、職場にもよるが、一般に、人と会う仕事が増えてきている。将来、幹部候補と目される優秀新入社員に対しても、力をつけさせるために最初は第一線の外回りをさせる会社も少なくない。
 その場合、やはり人と応対するコツだとか、豊富な話題、人情の機微のとらえ方など、勉強し、身につけていくべきテーマには、こと欠かないであろう。
 実際にそれが自分のものになっていくのは、入社してからの実践いかんによってであろうが、それ以前から心がけて勉強した人としなかった人では、スタートにおいて、大きな開きが出てしまうものである。
 結局、大事なことは、仕事に取り組む姿勢であると、私は思う。この意欲の有無が、職業人としての成長を決定し、人生における勝敗を決定するのであろう。
 仕事に対しては、それが自分の願いどおりの仕事である場合は当然、不幸にして願いどおりでなかったにせよ、それに全魂を傾けて取り組むことが大切ではなかろうか。
 自分の希望した職場であっても、現実に入社してみると、理想とははるかにかけ離れており、早くも失意に見舞われてしまうという例もよく聞く。とくに、大企業では分業化が激しく、与えられた仕事は、単純な作業の繰り返しであることが多い。そんなことから、就職してまもなく、職場を替えてしまう若者も往々にして見受けられる。
3  私は決して、転職それ自体を悪いと言うつもりは毛頭ない。本当に真剣に考え、周りの意見も聞いたうえでなら、そのほうがよい場合もあろう。
 しかし、たんなる自分のわがままから、次から次へと職を替えるということは、人生において大きなマイナスであるし、その仕事に生きがいを見いだしていけるかどうかは、なによりもまず自分の努力いかんによって決定されるということを知っていただきたいのである。
 仕事は、自分がそのなかに飛び込み、苦労していったときに初めて喜びを見いだしていけるものである。
 パスカルは、「生涯において最も大切なことは、職業の選択である。偶然がそれを決める」と言っている。
 偶然というのはチャンスということであろうが、チャンスは、寝て待っていれば向こうからくるのでは絶対にない。自分のなすべき仕事を、それがどんなにつまらないことのようであっても、真剣に誠意を尽くして、やりきっていくときに、最高のチャンスをつかむことができるのではないだろうか。
 あえて言うならば、人は仕事を通じて、いかに生くべきかという人生の課題に取り組んでいるのであり、同時にそれによって、どれだけの人物かという周囲の問いにも答えているのだということにもなる。
 人生、仕事に生きがいを見いだせないことは最大の不幸であろう。人生の大半の時間は、仕事に費やされているのである。それが、ただ生活の糧を得るためにすぎないとしたなら、食べるために生きているのと変わりはない。
 生きることとは、自己の生命の発動によって、この世界になんらかの利益を与え、そして自己の存在を価値あるものとしていくことである。現代社会にあっては、それは仕事を通じてなされていくのが道理であろう。もとより例外はあるかもしれないが。その意味から、仕事は権利であって、義務ではないと言いたい。
 仕事そのものは会社から課せられた義務であっても、それを通じて自己を磨き、自己を輝かせ、自己を発揮していくという点において権利なのだ。権利と感じていくところに喜びがあり、成長があり、主体者としての充実感が生まれる。
 とくに就職してから最初の一年間は、何事にも積極的に取り組み、仕事をマスターするために、先輩の何倍も努力することが必要である。
 自分が創造的な仕事をしていくためにも、まず職場で人間的な信頼を得るという基礎を固めておくことが大事である。
 それなくしては、いくら新鮮なアイデアをもっていたとしても、保守的な職場では相手にもされまい。逆にそれが進取的な職場ならば、最初はその新鮮さを買ってくれるであろうが、基礎ができていなくては、自分自身が行き詰まってしまう。やがて、惨めな思いをしなければならないことも当然の結果である。
 仕事、あるいは会社の奴隷となるか、自分がその主人となるかは、仕事に臨む心構えのいかんによるが、その基礎は最初の一年で決まるといっても過言ではないだろう。
4  職場の人間関係で留意しなければならない点に、先輩との関係がある。
 今さら指摘するまでもなく、わが国には伝統的に年功序列を重んずる風潮がある。最近は、一部に能率主義を導入し、その改革に乗り出した会社もあるが、大勢は当分、変わりはなさそうだ。
 こうした人間関係の支配する職場では、事なかれ的な保守主義が全体をおおい、形式にとらわれた権威主義が幅をきかすものである。革新の息吹に燃えて入ってきた活気ある青年にとっては、耐えがたいことでもあろう。また自尊心を傷つけられ、屈辱の涙をのむ場合もしばしばあるにちがいない。残念なことであるが、現実問題としては、じっと耐え忍ばなければならないのが実情である。
 感情をむきだしにして、上司と対立してみても、のけものにされ敗残者になってしまっては、いかなる理想も実現できる道理がない。一刻も早く仕事をマスターし、先輩のもっているよい点を吸収して、先輩以上の実力を身につけていくことが大切であろう。そして、やがて自分が名実ともに中核的存在となっていったとき、そうした悪弊は一掃していけばよいのである。
 ただし、精神までそうした空気に染まり、自分たちが先輩の立場となり、中心となっていったときに、同じように悪い先輩になっては決してならない。それでは人間として失格であり、後輩から憎まれ、嘲笑されるだけであるからだ。
 どうか、明日の職場も社会も、新入社員の諸君たちの手中にあることを確信し、自信をもち、純粋な理想性と強い責任感をもちつづけて、明日のために今日の成長を期していただきたいと思う。
 最後に会社および社会との関係についてふれておきたい。これは、当然、今まで述べたことと関連するが、たんなる雇われ根性で、月給の分だけ働けばよいとか、文句を言われないようにやっていけばよい、という気持ちでは、自分にとってマイナスである。
5  人生の本義からいっても、それではあまりにも空しい。一個の社会人であり、職業人である以上、使われて働いていくのではなく、その仕事によって自己を磨き、自己をつくり、その職場を借りて社会のために働いているのだ、と自覚することが大切ではないだろうか。
 戦国時代に“陣場借り”というのがあった。合戦があると、主君をもたぬ浪人たちは、みずからすすんで一方の大将に無報酬で雇われ、戦場で命がけで戦う。そこで功績を立てれば力を認められて、正式に家来にしてもらうということであった。
 古めいた話で、若い人々には適切なたとえではないかもしれない。また、その価値の次元もはるかに低い。だが、その根底の原理と精神は、今の時代にも通じるとはいえまいか。
 今の職場も、自己の人間としての価値を発現し、社会に貢献するために借りた“陣場”と考えてはどうだろうか。その信念と自覚に立つならば、どんなに辛い職場であろうと、おのずと励みが出てくるにちがいない。
 リンカーンの言葉に「世には賎しい職業はなく、ただ賎しい人があるのみである」というのがある。社会の法からはずれ、害悪を及ぼしていくような特殊な場合は別として、職業や職場に貴賎の差別はない。それぞれが他に代えられない価値と役目をもっていればこそ、職業として成り立っていけるのである。それを賎しいとするのは、その仕事に臨む人の意識と姿勢が賎しいものとしているのにほかならない。
 同じ職場で働いている人間についても、月給さえもらえばよいというのと、なんとか上役に認められようと、要領主義でいくのと、仕事を通じて自分をつくり、ひいては人類社会の未来に尽くしたいというのと、それぞれの人生哲学によって、一日の仕事のやり方や内容に、おのずと相違が出てくるであろう。
 それが一年、二年と積み重なっていくとき、生命の年輪にハッキリとした違いが現れてくることは、むしろ当然な道理ではなかろうか。
 歴史のうえに不朽の功績を残した人たちも、その陰には不動の人生観と身を削る努力が秘められていることを見落としてはならないであろう。
 現代の日本には、本来の民主主義の精神をはき違えた無責任な放縦が横行している。自分の会社さえ儲かればよいという企業、わが身さえ安泰であればよいという社員、そこには調和ある社会全体の進展はなく、民衆すべての幸福はない。
 個人と社会、小社会と全体社会と、この間にある断絶の谷間は、ますます深まりを拡大していくようにすら思えてならない。このギャップを埋めるものは、結局、一人一人の職業人であり、事業家である。現代社会の抱える大きな問題の一つが、個人と会社と社会とを包含した、この新しい企業人、職業人のモラルの拡充によって解消されるのではあるまいか。

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