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日蓮大聖人・池田大作

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人間教育のすすめ  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  わが国の大学紛争は、ますます混迷の度を深めつつある。そればかりか、卒業式をめぐって、各地で高等学校が揺れ動き、今日の教育問題の根の深さと重大さを一段と鮮明にしている。
 学生たちのとった直接行動に対しては、種々の意見もあろう。しかし、人間不在の教育に追い込まれた若者たちが、その疎外感、孤独感、孤絶感の淵から必死になって這い上がろうと、精いっぱいの抵抗を試みている、いじらしいまでに真剣な姿を見るときに、なによりも、そこに内在する根本矛盾の解決こそ先決である、と訴えずにはおられない。
 「教育の目的は、機械を作ることではない、人間を作ることである」と言った思想家がいた。教育の目的は、人を人間にまで導く、つまり人間形成である。また、人間建設であり、人間革命以外のなにものでもない。
 考えてみれば、人間ほど偉大なものはないであろう。なぜなら、いっさいの文化の創造の可能性は、広大な宇宙においても、ただ人間の生命の内奥にだけあるものだからである。その人間のなかに秘められた、偉大なる可能性を引き出し、それを磨き、さらに磨きあげて、完成へと導く、そこに教育の使命がある、と私は考える。
 教育は、一国の文化の発展、民族の興隆を決定するものであり、その果たす役割は、政治や経済よりも、はるかに大きい。
 それゆえ、たんなる知識の断片を詰め込むことに終始した、いわゆる知識偏重の日本の戦後教育が、いかに目的から逸脱しているかが明確であろう。さらにそのことが、創造的な未来ある若き生命をどれほど苦しめてきたか、また、文化の建設のために、いかにマイナスの要因となってきたか。ここで多くを語る必要もないであろう。
 教育に、人間性を取り戻さなければならない――これが先決問題である。それは、国民的な最重要の課題であり、急務だと私は思う。
2  では、理想の人間教育はどのようにすれば可能であろうか。激化する学園紛争を見て、学制の改革、カリキュラムの改変等をもって対処しようとする動きがある。これもまったくむだとはいわない。
 しかし、今の教育界の病巣は、もっと深部に達しており、小手先のテクニックで解決するほど、なまやさしいものでは決してない。本源を賢明に洞察しなければならない。
 まして、権力をカサに、圧力をもって鎮めようとする政府のやり方は、教育界を今日の混乱に陥れた大半の責任が、非情な政治自身にあることを無視した、卑劣な手口と言わざるをえないと思う。
 凝視すれば、学制やカリキュラムを支える基底なるもの、それは、教師と学生の人間関係であることは容易にわかることである。両者の人間関係こそ、教育価値を創造する主体であって、それ以外にはない。そして、人間不在の教育とは、じつはこの教師・学生間の人間不在にすべて還元されるといっても、過言ではないと思う。
 「教師は、自分の俸給ぐらいは情熱をもって……」と言った人がいるが、残念ながら、それすらもてない人も少なくなかったのではなかろうか。
 人間形成は、太い信頼の絆で結ばれた、両者の温かい生命の譜であり、時には火花を散らす熱烈な接触のなかに高められ、造成されるものではないだろうか。人間の内奥に秘められた無限の可能性、人格的な価値を発現させる方法は、この人間性のふれあい以外にはありえない。
 現今のように冷えびえとした教師・学生間のつながりからは、教育の真の成果は、望むべくもなく、早晩、危殆に瀕することは目に見えていたと言わざるをえないだろう。
 情熱に燃える、よき師に巡り会えた青年ほど幸福なものはないと、私には思える。たとえ、功なり名を遂げても、恩師をもたぬ人生ほど寂しいものはないといえよう。教育に愛情を注ぎ、全魂を傾けて青少年の胸に永遠の思い出の灯を点ずるよき教師が、続々と教壇に立っていただきたいことを、心から訴えずにはおられない。そこにこそ、難題累積する人間教育への道も、かならず豁然と開けてくるであろう。
 すぐれた教育の条件は、決して、学問の権威でも、教師の名声でも、まして建物でもないはずである。
 「アカデミーをつくったのがプラトンであって、プラトンはアカデミーから生まれたものではない」との言葉は味わい深い。
 無名だが、熱情の教育者のもとに、ぜいたくな設備はないが愛情の光に満ちた環境のなかに、真に次代を創る逸材、偉材が誕生する事例を、われわれは、吉田松陰の松下村塾に学ぶことができるのである。
 逆に、そびえる権威の象牙の塔と、輝く名声の扉が、いかに空しいものであるか、さきの東大紛争が余すところなく語ってくれた。若々しい情熱をたぎらせた無名の教育者が、陸続として輩出するとき、世界に模範となる理想の人間教育の黄金時代がかならず到来することを信じて疑わない。
 教育者であると同時に、研究者でもある大学教授の立場は、高中小の教師とは異なり、教育だけに専念できない面もあるかもしれない。しかし、一部でいわれているように、研究で立派に業績を上げれば学術界で地位を不動にすることができるが、教育面でいくら成果を上げても目に見える報いはないために、どうしても、教育への努力はおろそかになるという事実があるとすれば、それこそ、猛省すべきことではないだろうか。
 研究と教育が、「敵対的な関係にあるという証拠は、どこにもみつからなかった。たえず学習を続けないような教師は、学生に刺激を与えることはできないし(中略)研究をやめたが最後、教師はくりかえしをこととするだけで、自分をとりまく世界や若者との接触を失ってしまう」――D・リースマン、C・ジェンクス著『大学革命』(國弘正雄訳、サイマル出版会)には、そのように述べられている。また、「知識の三つの属性、すなわち知識の獲得、伝達、応用について論じてきたが、同時にこの三つの属性もしくは特質が、近代の大学の三つの使命、すなわち、教育、研究、社会奉仕に、それぞれあい通じていることも発見した」(天城勲・井門富二夫訳『大学の未来像』、東京大学出版会)との指摘にもあるとおり、立派な研究者の立場と教育者の立場とは、決して相矛盾するものではない。
 最高学府の教授が、今こそ人間教育の先駆を切って、その範を示されんことを願ってやまない。
3  では、人間教育の内容はどうあるべきだろうか。
 教育は、人間を扱う技術であり、したがって、これを運用する人に、情熱と同時に、確固とした教育理念がなければならない。まず根本に、人間に対する深い洞察と理解があって、そのうえに、教育の明確なビジョンと方法が樹立されていかなければならないと思う。
 この観点に立って私は、新時代の理想は、健全な英才教育でなければならないことを、かねてから提唱している。
 ここでいう英才教育とは、いわゆる天才教育やエリート教育とは根本的に異なる。児童のすぐれた才能の芽を早期に発見し、両親や家庭教師によって行われる天才教育では、その他の隠れた能力を伸ばす機会を失ってしまう。すなわち、創造性や適応性の芽をつんでしまうことになる。また感情や精神のアンバランスな人間をつくる危険性さえある。
 これに対し、英才教育とは、すべての青少年の人間のうちに、次代の文化を分担する偉大な能力を内蔵しているとの事実認識に立って、その生命の宝庫の扉を開いていくために限りない愛情の手をさしのべていく教育のことである。
 かの松下村塾は、狭い辺地の一角である萩から三十四人もの俊逸を送り出している。なにも萩に人材が集中的に誕生したわけではないであろう。他の土地に松下村塾があれば、おそらくそこの青年が逸材に育ったであろうとも考えられる。
 こう思うとき、人間の内なる力の不思議と、それを引き出す教育の威力に着目せずにはいられない。
 それにつけても、現今の教育のあり方は、あまりにも悲劇的ではないだろうか。受験戦争の激しさにともない、高校は大学の、中学校は高校の予備校化を強めているからである。さらに、未来ある若人を苛酷なテスト教育で痛めつけ、その影響は小学校から幼稚園の入園にまで及んでいることを聞いては、寒心に堪えない。しかも今日、中学校から高等学校への進学率は八〇パーセントにおよび、大学で学ぶ青年は、同じ年代層の約二〇パーセントを占めている。このような大衆化した状況にあって、現今のごとき平均点主義の学力偏重の教育は、大量の落伍者を生み出すことになりかねない。
 すでに、ある調査は高校生の七割が、与えられる知識に不消化を起こしていることを報じている。受験本位の教育は、それに耐える三割と、ついていけずに心に痛手を受ける七割の学生を送り出している計算になる。人間を形成すべき教育が、大量の劣等感、卑屈感、敗北感を造出しているとすれば、まことに恐ろしいことではないだろうか。
 学生の能力を、ある学者は、優等生型、創造型、リーダー型、反抗型に分類しているが、実際はその混合型である。さらに分類すれば、特性は限りなく細分されていくであろう。そしてその総体は、各人それぞれの個性となり、自我を形成している。
 ところが、現今の学力テストの中心は〇☓式に端的に示されているごとく、覚えた知識をただ再認し、再生させることにとどまっている。それでは、多岐にわたる特性を備えた学生の能力の、ほんの一部を垣間見るにすぎないであろう。結局、受験本位で、ガリ勉主義の優等生型をクローズアップさせ、その優越感を満足させることはできても、分析力、洞察力、さらには創造力を発見して、さらに全体観に立った総合力を育てる人間性開発には、あまりにも無力であるといえよう。
 学校の秀才、かならずしも社会の秀才ではない。
 ウィンストン・チャーチル卿を引き合いに出すまでもないが、学生時代には成績の目立たなかった、いわゆる創造型、リーダー型、反抗型の人がかえって社会に出てから大活躍する事例を、いくらでも周囲に見ることができよう。尾崎咢堂などもそうかもしれないし、ノーベルもそうであろう。
 「結局、教育とは、学校で習ったことを、すべて忘れたあとに残っているところのものである」と言ったのは、アインシュタインの有名な言葉である。
 したがって、万人を人材と認識して、伸びのびともてる特性を発揮せしむる健全な英才教育こそ、時代の要請ではないだろうか。また、それが時代の趨勢であると叫ばずにはいられない。一刻も早く、万難を排してその実現に努力を傾注すべきであると強調したい。
 もとより人間教育は、知識の習得をないがしろにするものでは決してない。知識は、知恵にいたる門である。だれでも、知識なくして英知を発動せしめえないし、さらに、高度産業社会に突入しつつある現代において、相応の知識と教養をもたねばならないのは当然である。
 「すべての人間は、生まれながらにして、知らんことを欲す」とはアリストテレスの形而上学の命題であった。
 探究心に燃えて、貪欲なまでに知識をあさっているとき、青年の心は充実感に打ちふるえ、時のたつのを忘れるものである。
 ところが、義務や他から強制されて勉強しなければならないとき、学問ほど苦しく、そしてやっかいなしろものはない。知識は、なによりも本人が情熱を傾けたときに、初めて血肉となる。である以上、それを楽しく、意欲的に習得させる、教師の知恵と熱意と技術が求められるわけである。
4  ここで、教育者としても大きな足跡を残した、私の恩師である戸田城聖先生の教育法に着目したい。
 それは、子供たちの旺盛な好奇心に応じて、具体的な事実から一つの学問的概念を認識させ、それから推理を積み重ねさせていって、いつのまにか複雑、高級な概念を理解させる方法で、その集大成したものが、独創的な名著、戸田城外著『推理式指導算術』となって今に輝いているものである。
 二十一世紀を前に、今、情報化時代を迎え、学問の各分野も日進月歩、躍進を示している。そして専門の知識を含めて、新たな情報は、あたかも洪水のごとく押し寄せてきている。学校で学んだ知識は、卒業後数年もたたずに役に立たなくなってくるであろう。こうした時代相を考えるにつけ、なおさら、知識をただ脳裏にプリントするだけの教育の空しさを痛感せずにはいられない。
 では、これに対する処方はいかにあるべきか。これは、人間教育の目標を、何におくべきかで決まると思う。
 結論として、おびただしい情報の大量迅速な記録、伝達を、正しく、価値ある方向に使いきっていける、主体者としての人間形成でなければならない。それに耐える人間は、創造的、個性的であることは当然のこと、さらに一歩進んで、なんでもこなせる全体人間でなくてはならないことを提唱するものである。
 ますます巨大化する科学文明のなかにあって、まかり間違えば人間はその奴隷になりかねない。あくまで主人公として君臨していくためには、英知を、時にしたがい機に応じ、存分に発揮していける人間群の創出、これこそ急務ではなかろうか。これからの教育界も、その一翼を担う決意をかためる時に当面しているといえよう。
 最後に、理想の人間教育は、ひとり教育界の陣痛のみによって日の目を見るのではないということを、当然のこととして訴えたい。
 たしかに欠点の多い現今の教育制度であるが、それも、これほどまでに灰色一色の受験コースになってしまったのは、結局は、大人の世界のエゴイズムの投影であるとしか考えようがない。
 学歴主義、有名主義、権威主義の世相を生き抜くなによりのパスポートは大学出の肩書である時代、それを敏感に感じ取る若人が、みずから打算の進学コースを選んだからといって、彼らを責めるわけにはいかないであろう。さらに、親のエゴイズムで出世主義が増幅されては、救いようがない。しかも、それを是正する最後のチャンスたる教師が、ただ、受験勉強の需要に応ずるに大わらわであっては、もはや理想の人間形成は跡形もなく蒸発してしまうであろう。
 人間教育の実現のためには、大人の社会観、価値観を、まず改めなければならないと、私は思う。すでに、人類の長年にわたる試行錯誤の結果として、生命の尊厳を根底においた民主主義を、すべての大前提とすべきことは言うまでもない。すなわち、梅は梅、桜は桜で、各人がそれぞれの分野で自分らしい花を咲き誇らしていくところにこそ、未来社会の理想像がある。
 人間はすべて平等ではないか。有名主義、学歴主義、形式主義は葬りさって、たとえ社会の一隅で、一工員として闘っている人にも、社会全体の感謝と称賛の光が注がれる時代を、少しでも早く現出することを祈ってやまない。
 よき種はよき苗となり、よき花が咲くように、よき少年はよき青年となり、よき社会の人材と育つであろう。そのためにも、よき大地となり、温床となる、物心両面の教育環境の整備と確立を急がねばならない。

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