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日蓮大聖人・池田大作

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史観について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  一つの歴史的事実というものも、それを見たり考えたりする人の主観の異なることによって、正反対に受け取られることが多い。主観とは物事をとらえる視角の問題であるが、この視角が歴史に照射されるとき史観となるのである。
 ある視角からは、民衆のために戦った英雄も、別の視角からすると極悪の反逆者とされてしまう。同じ一人の人間を観る眼が、どうしてこうも違ってしまうのか。ここに歴史観ないし史観についての問題提起が、いつの時代も後を絶たないゆえんがある。
 ひと昔前までは唯物史観という史観が世界を席巻したような感さえあった。なんでもかんでも物質的基礎に視角をおき、社会の諸々の現象いっさいを、その影響による上部構造とした。頭脳もまた脳細胞という物質に還元したのである。
 そしてこの視角からみた社会の進化、構造の変化は、「生産力と生産関係」の変化を原動力として社会は階級を生み、その「階級による矛盾の解消」に歴史的必然があるとした。これがマルクスの唯物弁証法による歴史観であり、社会革命の理論となっていることは周知のとおりである。
 ところが、必然的に崩壊すべき資本主義社会は百年たってもなかなか滅びそうもない。マルクスの信奉者たちによって、なるほど社会主義国家は地上のあちこちに出現したが、人間の自由・平等の理想社会はなかなか現出しない。
 現代の人間はそのどちらの社会にあっても、さまざまな不幸を感じたまま、既成の歴史観というものに、深い懐疑と絶望をいだいているのが、正直いって現実の姿ではないだろうか。
2  現代ほど史観の転換を迫られている時代はないと思う。未来を託すに足る、誤りのない史観を人々は渇望している。
 史観の系列をたどってみると、まずギリシャのポリビオスに代表される円環史観があるが、キリスト教以降になると史観は急に目的論的になり、決定論的な色彩が濃厚となってくる。中世ヨーロッパの史観は、天地創造から始まってこの世の終末にいたる運命が決定づけられるとし、いっさいは全知全能の神の摂理に従うと考えられた。
 近世に入って啓蒙主義思想のもとでは、この神の摂理は否定されたが、理性がこれに代わったのにほかならなかった。
 十九世紀前半、ドイツ観念論哲学を集大成したヘーゲルは、世界の究極的実在をイデー、理念、精神と考え、すべてはこれを求めて弁証法的に発展をつづけていくと主張した。
 マルクスの唯物史観は、このヘーゲルの理念を物質と置き換えたところに成立したものといえよう。マルキシズムの唯物弁証法は、その奥底にキリスト教の“神の摂理”を潜在させており、やがて到達するとされる社会主義体制は、キリスト教の“神の王国”を言い換えただけのものといっては言いすぎになるであろうか。
 ともあれ、一つの目的に向かって世界は必然的に動いていくという史観の根底には、それを必然的ならしめる、なんらかの超越的な力の存在を前提としなければならない。
 こうした絶対的な力または実在によって歴史が動かされているとするかぎり、個人の無力感と超越的な力の光背に身を包んだ、権力者の横暴は免れないと思われる。過去の歴史観の害悪は想像以上に大きいようである。
 カール・ポパーはその著『歴史主義の貧困』(久野収・市井三郎訳、中央公論社)の冒頭に「歴史的命運という峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲となった、あらゆる信条、国籍、民族に属する無数の男女への追憶に献ぐ」と献辞を記している。それは歴史がある超越的なものによって、必然的に支配されているとする、過去の史観に対する鋭い弾劾の言葉でもある。
 今日の歴史学は、歴史の法則性の実在を認める人々と、法則性を否定する人々に分かれている。歴史は自然現象と異なって、人間の意思や衝動による要因が加わるから、それを一貫する普遍的な法則を求めることはきわめてむずかしい。
 さらに経済の分野での法則、政治の分野での法則、軍事上の法則等々と、各分野での法則は究められても、それが全体として歴史の流れのうえにどのようにあらわれてくるか、となると、ますます解明しがたくなるものだ。かといって、歴史の法則性をいっさい否定し、歴史をたんなる過去の事実の累積としてしまうことは、明らかに誤った態度というべきであろう。
 人間のすぐれた英知の眼は、過去の歴史に偉大な教訓を読み取り、現在と未来への有益な指南としてきた。過去をたんなる過去として、そこから法則性を汲み取れないとするならば、人間の英知はみずからその存在の理由を失うにちがいない。
3  では新しい歴史観はどこに求められるのだろうか。これはたんに歴史哲学などという学問の一分野の問題ではない。広く人類の存在全体にかかわりをもつ大きな課題であると思う。ただ私なりの考えの一端を述べると、仏教の史観は、すでに三千年も前に、この問題に対する明確な解答をもっていたように思われてならない。
 ある経文には「如来は如実に三界の相を知見せり」とあるが、その三界とは欲界、色界、無色界をいう。無色界とは思想、理念、精神を意味する。キリスト教の“神の摂理”やヘーゲルの“精神”を包含する概念である。色界とは物質であって、唯物史観が説く“生産力と生産関係”などはここに含まれてしまう。そして欲界とは人間の欲望であり、富に対する欲望、権力欲、探究精神、美へのあこがれ、などといった人間的要素を包含している。
 この欲、色、無色のさまざまな要素がからみあって、歴史の発展模様を織り成しているというのが仏法の見方である。とすれば、過去の史観はすべて仏法の英知に包み込まれている、といって過言ではなかろう。
 このほか、具体的発展の図式を示すものとして、時応機法ということも説かれている。時とは時代、応とは仏法では民衆を化導する仏をさすが、広い意味では具体的には指導者といえまいか。機とは社会民衆の願いであり、社会民衆の世論である。法とはこの民衆の要望に応えうる思想や政策ということができる。この時応機法の条件がそろったときに、社会の変革、歴史の発展が実現される、との原理である。
 仏教では釈尊滅後の仏法流布の状況を予言した三時の弘教や五五百歳の説などがあり、いずれも見事な適合を実証している。それは仏教のもつ歴史観の卓越性を事実のうえに示したものとも考えられる。
 なかんずく、生命の尊厳に規範をもつ仏法史観は、人間不在の歴史と嘆かれている現代の歴史観からの脱却にあたって、最も重要な意義をもつはずである。人間の歴史の輝かしい未来の建設のために、東洋の英知の真髄を根底とした「人間史観」ともいうべき、新しい史観の樹立を念願してやまない。

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