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日蓮大聖人・池田大作

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権力の魔性  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  しかも、権力の横暴の歴史を振り返ってみると、私の場合はまだましであったといえる。過去の絶対王政や封建制のもとで、何千万、幾億の民が苦しみ、殺されてきたことか。否、現代においても、ヒトラーの命令下でナチスが行ったあの大量虐殺は、権力の魔性のあらわれ以外のなにものでもあるまい。
 広島、長崎に原子爆弾を投下せしめた、時の米大統領の命令書もまた、権力の発動である。今日、べトナムに数十万のアメリカ青年を兵士として送り込んでいるその力の正体も、やはり権力であるはずだ。
 私はわが身が権力の掌中にとらわれてみて、その背後にある長い横暴の歴史と巨大な組織の力とをまざまざと思い知らされずにはおれなかった。そして、民衆の幸福のためにも、また、これまで犠牲となっていった幾億の人々の心を慰めるためにも、この魔性を徹底的に打ち砕き、滅ぼす以外にはないと決意したのである。
 それは未曾有の、想像を絶する革命図式である。たんに権力を奪う革命なら、これまで幾回となく試みられ、成功した例もある。だが、その結果はただ権力が別の人の手に移っただけで、その魔性はなんら変わることなく、民衆を苦しめつづけたのである。しかも、そのあげくは権力に拠って立つものは、権力に依って倒れる、という原理を実証するばかりではなかったか。
 本当の革命は、権力をわが手に奪うことではなく、民衆に仕える下僕たらしめることだ、と思う。
 ルソーの「社会契約説」を引くまでもなく、権力とはもともと社会の秩序ある生活の維持のため、民衆が委託したものだ。してみるならば、その行使は社会の秩序と民衆の幸福のためにのみ許されているといってよい。権力は民衆の下僕であり、権力をもつ人間は公僕である。
 インド史上最高の名君であり、世界史のうえにおいても、最もすぐれた王と称せられるアショーカ大王は、次のように宣言している。
 「何れの時、何れの場所においても、食事中なりとも、或いは後宮、寝所にありとも、或いは私室、車駕の中にありとも、或いは禁苑にありとも、上奏官は人民に関する政務に就き、朕をして事情に通ぜしむべし。何れの時、何れの場所にありとも、朕は人民の福利のために精励すべし」(J・ネルー著『インドの発見』岩波書店)
 アショーカは絶対主義的な帝王である。だが、民主主義時代の現代「大きな政策の前に多少の犠牲が出るのはやむをえない。五人や十人自殺してもしかたがない」と言った政治家と考えあわせたとき、はたしてどちらが民主的であり、権力を正しく行使したといえるだろうか。
 なにもアショーカ大王一人にかぎらない。真にすぐれた王とか、君主とか、政治家とは、つねにその権力を民衆の福祉のために行使した人にして初めてふさわしい称号なのではないだろうか。民衆に奉仕することに徹した人こそ真の、権力者を超えた指導者といえまいか。
 権力は鎖でしっかりつなぎ、暴走を抑えるとともにつねに監視し、ムチをもって服従させねばならない猛獣である。しかるに、民衆はいつかその鎖をはなち、ムチを失ってしまった。そして中国の有名な故事にあるように、人食い虎より恐ろしいものとしてただ畏怖するのみ、となってしまったのである。
3  民主主義の政治、社会体制は権力をその本来の姿に戻させる最良の手段である。というより、民主主義は民衆が主人であり、権力は民衆に奉仕すべきものであることを宣言した理念にほかならない。
 その意味で、民主主義の時代を迎えた現代はこの猛獣を鎖につなぎとめる絶好のチャンスである。しかし人々はこのチャンスに遭遇しながら、何をなすべきかを考えず、安閑としているように思われてならない。時に権力の恐ろしさを眼前にしても、ただオロオロするばかりのようである。なかには巧みに権力と結託して利益をむさぼろうとし、ますます権力の魔性を増長させているものさえ見受けられる。
 今もし民衆が主人としての自覚に立ち、猛悪な権力を扱う術を身につけなければ、どのように恐るべき時代、そして事態におちいらぬともかぎらない。たとえば、これを怠ったところにドイツ・ワイマール共和国の失敗とナチスの台頭があったとはいえまいか。しかも、それがいかに恐怖すべき結果を招いたかは周知のとおりである。
 現代の反権力のさまざまな闘争が起きているのも、理由のないことではない。結局、権力が正しく行使されて民衆の幸福のために作用するか、誤って魔性の権力となってしまうかは、それを動かす人物によって決まるのだ。権力をもった人間の傲慢や独善で動かされていくかぎり、民衆の幸福は永久にありえないだろう。権力者の胸底に生命蔑視の思想があるかぎり、民衆の生命の安全すら保障されないであろう。そこに権力の魔性が暴威をふるう温床があるからである。
 過去の歴史は生命蔑視の原則によって貫かれてきたといってさえ過言ではないようである。極端な言い方をすると思う人は、人類の歴史をありのままに見直していただきたい。一見華やかな文化の興隆の陰にも、つねに無名の大衆のおびただしい血と涙が流れていることがわかるはずである。
 生命軽視から生命尊重へという、見えざる理念の世界変革、あえていえば人間生命それ自体の変革こそ最も究極的な革命であり、権力の魔性にとどめを刺すにはこれしかないと思う。
 この急所を外した革命は、かえって魔性の力を増長させ、いたずらに混乱と残酷の流転を繰り返すのみではないだろうか。

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