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日蓮大聖人・池田大作

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人間と自然  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  文明の爆発的な発展にともなって、大自然そのままの環境は急速にこの地上から消滅しつつある。とくに、先進国といわれるアメリカ、ヨーロッパ、そして日本においては、都市化、工業化の波が怒涛の勢いで進み、自然の破壊をもたらしている。
 たしかに、高度な産業の発達によって、われわれ庶民の生活も物質的にはいちじるしく豊かにはなってきた。しかし、心を潤してくれる美しい自然はもはや身近なところには求められなくなってしまっている。なによりも生命維持のために最も大切な水や空気が、工場の排水や有毒なガスによって汚染されつつある。日々、口にする食べ物も農薬や漂白剤、防腐剤を含み、知らずしらず生命の機能を侵しているといわれている。
 この高度産業社会を生みだした文明の発展は、十八世紀産業革命に端を発する技術革新によって支えられてきたといってよいだろう。
 技術革新とは、言い換えると、自然をいかに征服し、そこに秘められたエネルギーをどのように引き出し、人間に役立たせるかである。必然的に、人間にとって無益と思われるものは変革され、有害とされるものは滅ぼされるわけだ。事実、西洋に始まるこの一連の文明は、こうした自然へのあくなき挑戦と征服とによって、今日の繁栄を築いてきたといってよい。そこには技術革新による文明の発展は、すべて人類の幸福と福祉に貢献するものである、との不動の確信があった。それが今、土台から揺らぎはじめたのである。関心をもっている人々にとっては、すでに周知の事実であろうが、一つの例をあげてみよう。
 今日、農業において、年々膨大な量の除草剤や害虫駆除のための薬剤が使われている。おかげで作物も、病虫害はほとんどなくなり、稲は毎年重い穂をたれ、豊作記録を更新している。だが、この明るいニュースの裏に恐るべき事実が潜んでいることがわかった。科学的な分析の結果、撒かれた農薬が作物に吸収され、人体に入り込んで蓄積されると、神経系統や内臓諸器官を侵す危険があるというのである。
 さらに農薬は、意外なところに意外な影響を及ぼしていることも判明した。薬剤によって田や小川に生息する小動物が滅び、その小動物を餌とする鳥類が、あるいは餌不足のため、あるいは薬剤の毒素のために死んでしまう。鳥が滅ぶことによって、これまでその鳥のために繁殖を抑えられていた別な小動物が急に増えて、それが人間の生活を脅かすこともある。空には小鳥が囀り、小川のせせらぎに魚が銀鱗をひるがえし、夜になるとホタルが飛び交う美しい日本の風物詩は、もはや過ぎ去った昔話でしかなくなっていくように思われてならない。
 結局、この自然界は、深い因果の連鎖によって結び合わされ、融合し、一つの有機的な統合体をつくりあげているといえよう。なんの関係もないような一つの環も、これをつぶすとかならず隣の環に影響し、巡りめぐって人間自身にまで戻ってくる。いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果の連関が、この自然界には事実の問題として起こるのである。
2  私は、なにも人間の英知の所産である技術文明を悪く言うつもりは毛頭ない。また、自然への挑戦を否定するものでも決してない。ただ、自然をあくまでも人間に対置し、人間を自然から超越して存在するものとしたヨーロッパ的思考の行き詰まりを指摘したいのである。人間もまた自然の一部にすぎないからである。
 今日の地上をおおう生命の世界は、初めて生命体が誕生した約三十五億年の昔から、気の遠くなるような生存競争と変遷とを繰り返しながら、見事な調和のとれた世界を構成してきたと考えてよかろう。
 どのような生命体も、なんらかの関係で他のさまざまな生命体に依存している。自分一人で生きているものなどは、一つとしてないはずだ。人間とて例外ではない。その意味で自然の破壊は、人間自身を破壊することに通ずる。したがって、自然の変革にあっても、この世界の実相を正しく見極め、それがどのような結果を生むか、よく考慮したうえで行われるのでなければならない。
 なかんずく、みずからの利益追求のみを目的として、多少の犠牲はやむをえない、などとうそぶいているような“エコノミック・アニマル”の行き方は、断固として排斥されるべきであろう。それらの犠牲が寄り集まり、競合し、巡りめぐっていくうちに、取り返しのつかない災厄となってしまうかもしれないからだ。
 これに関連して、私は科学のあり方にも責任の一端はあると思う。これまでの科学は、人間的要素を排除し、そのもの自体における原因、結果の関係性、法則性を純粋に抽出し、追究することに重点がおかれてきた。
 なるほど、それはそれなりに意義があり、科学技術のめざましい発達をもたらしてきたことも否定できない。しかし、それに比して、自然と人間との関係性についての解明は、人間自身にとっては、はるかに深い関心事であるにもかかわらず、ほとんど無視されてきたのである。
 この点について鋭い批判を加え、初めて人間と自然との関係に視点をおいた新しい学問体系の確立を唱えられたのは、牧口常三郎先生であった。牧口先生が、そのまったく独創的な思索の成果を『人生地理学』として著し、世に問うたのは、じつに明治三十六年のことである。わが国の学界は、この斬新的な試みに対し、評価の術すら知らない時代であった。牧口先生の発想の正しさは、それから数十年たった、第二次大戦後、見事に立証されたといってよい。
 戦後の高校教育における『人文地理』は、じつに牧口先生の『人生地理学』と同じ発想基盤に立つものとみることができる。ただ、人間と自然との深い一体性を追究するうえで、牧口先生の思索は、はるかに深く、示唆に富んでおり、人間と自然の問題が問われている今日、ますます新鮮さを加えていることは事実である。
 私は、これからの科学として、さらに深い角度から人間と自然を解明する「人間自然学」というべき学問が、真剣に取り上げられ、探究されねばならないと考えている。
 しょせん、自然といい環境といっても、そこに住み生活する人間の反映であり、人間のありのままの生命を映しだす明鏡にほかならない。
 この人間と自然、環境との関係を、東洋の偉大な英知は“依正不二”と説いたのである。正とは正報といい、生命活動を行っている主体である。依とは依報で、正報が生命活動を行うために依拠する環境である。正報は依報を変えるが、同時に依報によって正報はつくられる。この一体不二の関係を“依正不二”というのである。
 かつてルソーは「自然にかえれ」と叫んだ。自然といっても人間に対置されたものとしての自然では無意味であり、私はこれをさらに一歩進めて「生命にかえれ」と訴えたい。
 この宇宙それ自体が、本来、人間をも含めて、一つの壮大な有機的統合性をもった広大な生命体にほかならないからである。

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