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日蓮大聖人・池田大作

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地球人の自覚  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  時代は急速に移り変わっている。かつては、それなりの意味をもった観念も、いつのまにか、まるで無意味な妄想と化しているものだ。現代の人類の苦悶も、まさにそうした現実と意識とのギャップから生じている。国家や民族間の対立、抗争がそれである。
 二十世紀後半の今日、人類文化の発展は、ついに月旅行を可能にし、宇宙への道を開くまでになった。大宇宙からみれば、ケシ粒にすぎぬ狭い地球の上で、宇宙へ飛び出すほどの力をもった人間が、あるいは国家体制の砦を築き、あるいは民族主義の柵(さく)をめぐらして、互いに憎しみあい殺戮しあう、この奇妙な図をいったいどう理解したらよいのだろうか。
 その戦争自体も、二十世紀に入ってからというもの、大きく変わってしまった。変わった点は幾つかあげられるであろうが、その一つは、純粋に一国家対一国家の戦争というものがありえなくなったということである。もとより、十九世紀以前にも、幾つかの国が入り乱れて戦った例も少なくない。しかし、大部分は一対一であったし、なによりも戦争の主体者は国家であった。
 しかるに、二十世紀に入って、戦争の主体は、一つ一つの国家を超えた何ものかに移ったといっても過言ではない。その端的なあらわれが、二度にわたる世界大戦である。第二次大戦後のさまざまな戦争も、一つには単純な一対一の戦争でないことにおいて、二つにはいずれも第三次世界大戦への導火線となる危険性をはらんでいることにおいて共通する特質をもっている。もはや現代の人間世界の実態は、純粋に一国対一国ののんびりした戦争を不可能にしてしまっているのである。言い換えると、国家という神聖にして絶対的であった枠は、もう神聖でもなければ、絶対でもなくなったのである。
 国家主義の絶対性を弱めたものは、国際情勢という外的条件ばかりではない。国の内部の諸勢力、国民の意識の変化が、なんといっても決定的な役を演じている。
 経済面でいえば、国際的な流通体制の発達によって、国の障壁はかえって邪魔になりつつある。意識面でいえば、文化興隆の推進によって、外国人や外国の文化を珍しがる風潮は、急速に消滅しはじめている。なによりも典型的なのは、兵士たちの軍務に対する考え方、自国に対する意識の変化であろう。ベトナム戦争において、多くのアメリカ青年が徴兵に反対し、脱走兵が相次いだことは、このことをよく物語っていると思うのである。
 生命の尊厳が叫ばれながら、国家だけは白昼堂々と大量殺人の“事業”に狂奔している。自国の青年たちを死地へ追いやり、他国の民の頭上に無差別な爆弾の雨を降らすなど、これにすぎる矛盾はあるまい。戦争は、クラウゼヴィッツの言うごとく、他の手段をもってする政治の延長であり、万策つきたのちの最後の非常手段かもしれぬ。
 だが、はたして戦争以外に解決の道はなかったか、と子細に考えてみれば、現実は感情の行き違いであったり、独断である場合がほとんどである。むしろ戦争を避け、平和裏に解決するところに政治家の使命があるのであって、戦争への突入は、政治家の無能と怠慢を証明する以外の何ものでもないといえるようだ。
 七〇年の安保改定期をひかえて、国家の防衛問題、集団安全保障等についての論議は、ますます白熱化することであろう。だが、国家や戦争の実態についての正しい認識なくしては、いたずらに世論の分裂を招くのみで、誤った方向へ暴走することにもなりかねない。
 考えてもみることだ。大陸間弾道弾や人工衛星の出現した今日、一国の防衛体制や地域的な集団安全体制が、はたしてどれほどの安全を保障してくれるだろうか。むしろ、それらは互いの警戒心と猜疑心を深め、不安を高ぶらせるばかりであるといっても過言ではなかろう。
 この現実を直視するならば、平和と安全のための最善の道は、なによりもこうした猜疑心と警戒心を取り除き、対立の溝を埋めることだということはわかるはずである。
 イデオロギーの違いや人種の相違はあろう。利害の対立ももとよりあるにちがいない。だが、そうしたあらゆる相違や対立にかかわらず、同じ人間であるという事実は、厳として存在する。地球上のすべての国民が、この共通の意識に立っていく以外に真実の平和と安全を保障できる道は開けない。これを私は“世界民族主義”と呼ぶ。
 一つの国民、民族のなかにおいては、さまざまな利害の対立や考え方の違いも、血みどろの争いになる前に、いつしか話し合いによって解決されるようになるものだ。それは、根底にナショナリズムという運命共同体の意識があるからといえよう。同じく全人類を包含する運命共同体意識の確立こそ、この世界を対立抗争の修羅場から信頼と調和の平和世界に変える大前提であると訴えたい。
 このことは、今、初めて主張するものではなく、ここ十数年前からつねに提唱してきた理念である。いな、さらに究極をいえば、私の信ずる東洋仏法の真髄それ自体、人類を平和に慈しみ、救済する世界宗教なのである。その哲理は、生命の本源を余すところなく明かし、人類や国家による差別は微塵もいれない大哲理である。
 今、心ある人々が、ようやく地球人としての自覚を訴え、世界連邦の樹立を叫ぶようになった。その理想は正しい。だが、どのようにしてこれを実現するか。偏見と憎悪が深く人々の心を毒している今日、そうした人間生命への鋭い探究と生命の根底からの変革なくして、その理想を達成することはできまい。このゆえにこそ、その原理を明かした大仏法に目を開くことをすすめるのである。
 科学の発達は、地球を狭くした。超音速旅客機SSTが就航すれば、太平洋を越えるのに三時間しか要しないという。新幹線で東京から大阪へ行くのとほぼ同じである。いや、もっと端的にいうと、都心から関東の周辺都市へちょっと足を延ばすのと変わりがない。これからどんどん発達するであろう科学の力によれば、地球を一つの国家ととらえ直していくことは、決してむずかしいことではない。
 科学の巨大な力を、互いに殺害し破壊しあうために使うか、互いに結びつけ、平和と繁栄を増進するために使うかは、人類の心一つにまかされた問題である。明と暗の対照は、だれの目にも明らかである。現代人は、間違っても破滅の道を選ぶようなことがあっては断じてならないと思う。
 最近、新しい資源を求めて、海洋開発の問題が真剣に討議されはじめているようだ。海洋国家日本は、領海問題では早くから苦しめられてきたわけであるが、やがて海洋開発が本格化していったときには、境界の問題は、いたるところで起こってくるにちがいない。ここにも国家主義からの脱皮が時代の趨勢であると主張するゆえんがある。
 全人類が、地球人という自覚に立ち、一つの世界が実現されたとき、人々は一つの事実に気づいて愕然とするにちがいない。境界をつくるべきなんのいわれもない、この地球の上に、過去の人間は、よくも器用に国境線を引き、しかもそれを維持するのにたいへんなエネルギーを費やしたものだ、と。

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