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日蓮大聖人・池田大作

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大学革命について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  大学は、かつて文化建設の揺籃であり、擁護者であった。だが、現在にいたっては、破壊の修羅場と化し、みずからをして破産を通告しようとしている。
 遠く、十二世紀に、北イタリアにボローニア大学ができて以来、フランスにはパリ大学、イギリスにはオックスフォード、ケンブリッジ等、幾多の優秀な大学が生まれ、今日にいたる長く輝かしい歴史を綴ってきた。この数百年の間、現在のような大学における騒然とした事態が生じたことは一度もなかったといってよい。
 まさに大学は、その発生以来の大転換を迫られているといえよう。
 現在の大学革命は、大学と政治権力、または教会権力との対決などというものではない。大学を含めた社会の管理機構と、それに対する青年の不満との激突であり、ひいては既存の社会、文化、価値観に対して、それを受け継ぐべき世代が継承を激しく拒否し、破壊しようとしているのである。ここに世代の断絶、転換を迫られる文明の実態が鮮明に浮かび上がってくる。
 青年は純粋である。曇りのないレンズのように、くっきりと被写体の実相を受け止めるものだ。歪みは歪みとして正直に映し出して容赦しない。潔癖で清らかな青年の心情は、腐爛した偽りの繁栄のなかに“昭和元禄”だの“豊かな社会”だのと、うそぶく大人の図々しさに我慢がならないのであろう。私は、今日のスチューデント・パワー、大学革命の本源はここにあるとみている。
 もとより、彼らの行動には狡猾な政治家たちの策謀に踊らされている面もあるかもしれない。また、その手段も、礼儀や常識を無視した粗暴さ、自分たちの意思さえ通せばよいといったわがままな一面など、非難されてもいたしかたない点もあろう。
 しかし、それも、よく考えてみると、大人のずる賢さのゆえであり、あるいは、大学に入る以前の教育に起因しているとも考えられる。
 結局、そうした教育を施したり、教育を利用しようとしたのは、大人自身なのだから、大人たちは、みずからの行為の報いとして、今、学生たちのゲバルトに苦しめられていることになる。それは、ちょうど原水爆をつくって、その恐るべき威力に縮み上がり、また機械文明を築き上げて、その重圧下にあえいでいるのと同じではないだろうか。
 現代文明の危機というものも、冷静な英知の目から見れば、皮肉な戯画の題材になりかねない。頭上に吊り下がっている核兵器のダモクレスの剣や、足もとに押し寄せる戦争の危機、そして、うわべの豊かさに反して、心の中にぽっかりとあいた空洞等々──。
 もとより、現代の人々にも、これらが見えていないわけではない。見えてはいるが、凝視することを忘れているのではなかろうか。音楽を聴きながら勉強に耽る受験生のように、現代人は、たいして気にもとめず、目前の楽しみを追うのに汲々としているといったほうが適切であろうか。やがて、この世界を受け継いでいくのは青年たちである。どうせ、あとはまかせるのだから、という安易な気持ちでいるとすれば、あまりにも無責任である。
 少なくとも、この社会の矛盾をできうるかぎり解決し、正常なものにして、次代に譲るよう賢明な努力をすることが、大人の義務ではあるまいか。しかるに、そうした青年たちの不満や憤りを権力で抑圧するなどとは、卑劣とも、愚かとも言いようがない。
 私は、なにも運動家学生にお世辞をつかうわけではない。私自身、社会の矛盾と不安に対しては、不断の戦いをつづけてきたし、権力の横暴にも真っ向から挑戦してきた一人である。青年たちの憤りと決意が、痛いほど私の生命に共鳴するがゆえに、私は心から同情せずにはいられないのである。
 しかしながら、廃墟と化した大学を、このまま放置しておくことはできない。それはもはや、たんなる大学の問題ではなく、一国の文化の興廃を意味するからである。しかも、大学本来の使命を考えるならば、今、古き文化の崩壊が、大学をその集約点として起きているように、新しい文化の建設もまた、大学の再建を起点としていることは、自然の成り行きであろう。
 だが、今、破壊のためのゲバルトを振るっている学生たちも、呆然自失してなす術を知らぬ教授たちも、破壊の次に、いかなる建設をなすべきかのビジョンをもっていないことは事実である。新しい大学建設の理念とビジョンは、そのまま新しい文化、新しい社会建設の縮図であり、源泉であるはずだ。
2  では、その理念は、いったいどのようなものであろうか。
 なによりも、それは、人間存在そのものについて、明快な解決を与える理念でなくてはならないと、私は思う。
 なぜなら、大学それ自体、究極的には人間をつくる場であるからである。しかもまた、現在および未来の社会が、最も切実に求めているものも、ほかならぬ人間の問題に対する明確な教示なのである。
 これまで、この人間の問題について、解決を与えていると、少なくとも信じられてきたのが、キリスト教であった。それゆえにこそ、従来の大学は、中世ヨーロッパの神学研究から出発し、キリスト教への信念によって支えられてきたのである。
 ところが、その伝統に立つ欧米の大学において、旧来のキリスト教思想に対する真っ向からの反逆が、学生たちによって起こされている。その顕著なあらわれが、アメリカの場合、八割近くが経験しているといわれる大学生のヒッピー化である。
 周知のごとく、ヒッピー族の拠りどころとしているものは、そのほとんどが、ヒンズー教や仏教なのである。キリスト教に対する無信仰化の傾向は、ヨーロッパのほうが、さらに強い。
 最近のある調査によると、神の存在を信じないという人は、アメリカでは三割という数であるのに対し、フランスでは七割にも達しているという。
 一方、わが国の大学の場合、こうした理念の存在を認めることは困難であるが、強いて言えば、西欧的民主主義がそれにあたろうか。いずれにせよ、その淵源をたどっていくと、すべて欧米からの輸入であり、その亜流とみることができる。
 今、新しい大学の建設にあたって、私は、かつての神の哲学に代わって「生命の哲学」を求めよと訴えたい。
 人間を尊厳ならしめるために、超越的な“天なる神”を求める時代は終わった。それは、わが生命の内なる尊極の当体を開きあらわしていくことによって、初めて達成されるのである。
 この哲理を、深い思索と科学的実証性をもって説き明かした生命の哲学こそ、二十一世紀への偉大なる文化創造の源泉となることを確信してやまない。
 最後に、大学、ひいては教育の再建のために、政治と教育のあり方について、一言、申し述べたい。
 それは、現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注ぐことにしかなるまい。真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化を創る厳粛な事業である。したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。その意味から、私は、これまでの立法、司法、行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい。

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