Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

二十一世紀について  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  ひところ、「未来論」や「未来学」が賑やかに論壇に登場した。今後も、未来社会についての想像は、ますます逞しいものになると思われる。──それは、現代社会の非情な現実が、いやでも希望を未来に託すからだ。人は、現実に絶望すると、未来に救いを求めずにはいない。二十世紀半ばの現実は、二十一世紀を理想郷として夢みる。
 十九世紀の人々は、二十世紀を夢みた。まさしく人間解放の世紀であったろう。ゆえに理想的な人間社会を想像し、トーマス・モアをはじめ数々の「ユートピア」論を生んだのである。人間の自由や平等が見事に実現した社会、近代科学の発達によって労働が強制されない人間社会といったように、どの「ユートピア」も人間の幸、不幸を基調としている。これは現今の「未来論」と比較して、とくに注目に値する事実である。
 現代の未来論は、とどまるところを知らぬ急速な科学文明の発達が、未来へどのような軌跡をたどるかが基調となっている。その意味で、現代の未来論は人間性を最初から喪失した形で進められているといってよい。二十一世紀の大都市生活、交通、人々の衣食住、あるいは宇宙時代の世界までもこまごまと想像するが、そういう時代に、人間はいったい、どんな顔をして暮らしているのか、人間の表情はさっぱり浮かんでこない。浮かんでくるのは、驚くべき科学文明の発達した様相である。
 科学文明にいかれた現代人は、科学に関してしか、未来を想像する能力がないのであろうか。人間性の喪失、これにすぐるものはあるまい。
 たとえば、今後、世界大戦が起きたら、彼らの未来図はどうなるのか。戦争の絶対防止という、今世紀最大の課題は、彼らの論議になんの影も落としていないのである。じつに気楽な未来論もあったものだ。現実から目をそらして、ただ未来を夢みるというのは、少年にも似て、現代の人々の精神の衰弱の深さを、いかにも物語っているとはいえまいか。 現代は、人間について、真面目に考える能力を失ってしまったのだろうか。──いかにも、十九世紀からの科学の発達は、人間を生理学的に、心理学的に、あるいは社会学的に、人類学的に、生物学的に、生化学的に研究し、いくつもの発見によって、人間に関する知識が豊富になったことは事実だ。
 しかし、このような人間のとらえ方は、いくら精密になったとしても、人間の一断面をとらえているにすぎない。人間という、この不思議な存在に、いささかでも思いをいたすならば、もっと本源的なとらえ方をしないかぎり、現代の趨勢は、ますます人間性を喪失していくにちがいなかろう。
 未来論が、頭から人間性を喪失しているのは理由のないことではない。科学文明が、このまま進むならば、二十一世紀の人間はおそらくロボット化してしまって、科学に屈従した不思議な動物という──恐るべき人間像さえ浮かびかねないからであろう。この恐怖の予感が、忙しい現代において、人間について真面目に考えることを阻止している。
 人間を本源的にとらえるということは、“生きた”人間をそのままとらえることである。現代に最も欠けていることは、人間を本源的に考えること、人間の生命について、この尊厳な生命についての思考である。
 この思考を忘れて、現代の人間復権は成立しないであろう。この弱点は、人間性の喪失に悩むもののみが、かならず思いいたるにちがいない。
2  そこで私は、二十一世紀をあえて“生命の世紀”と名づけるのである。
 これは、時代の趨勢から、当然の要請として、そうなるであろうという予測的意味と同時に、その方向にリードしていかなければならないという、実践的意味を含んでいる。言うまでもなく、力点は後者にある。“生命の世紀”とは、端的にいえば生命の尊厳を根底とする時代、社会、そして文明ということである。生命の尊厳とは、人間の生命、個人の幸福というものを、いかなることのためにも、手段としないことである。言い換えると、人間の生命、幸福は、いっさいの目的であって、絶対に手段としてはならない、という考え方が徹底した社会である。
 この大前提に立つならば、もはや、戦争の不合理はあまりにも明白なことである。戦争は、人間生命それ自体を手段とし、いや、もっと率直にいえば消耗品として扱う、恐るべき罪悪なのだ。したがって、戦争は、絶対に起こしてはならないし、断じて起こさせてもならない。
 いかなる対立や相克であっても、力によるのでなく、英知によって、新しい解決の道を求めるべきである。それを私は、二十一世紀に賭けたい。 二十世紀の前半──人類は、世界大戦を二度も経験した。そして、その結果がどんなに悲惨きわまりないものであったか、身にしみて知っているはずだ。地域的に限定されているとはいえ、同じ悲劇を、今もわれわれはベトナムに、中近東に見ている。いわんや、人類の破滅を決定づける、第三次世界大戦は、絶対に避けねばならない。
 価値ある解決は、平和のなかにこそあれ、戦乱からは何ものも創造されない。一方が他方を倒したとき、かならず勝者もまた致命的な重傷を負っていることであろう。
 “生命の世紀”は、それゆえ、根本的な価値観の転換を前提とする。なるほど、生命の尊厳は、今初めて出てきた理念ではない。生命を、いっさいの目的とすべきことは、カントもはっきり述べている。
 だが、私が言いたいのは、現実の政治、経済、科学、芸術等の営みのなかで、生命の尊厳が絶対的な不動の地位を占めている、そんな世界を築くことであるのだ。観念論やたんなる理論でもなく、現実の問題なのである。
 では、そのために必要なことは何か。これを私は、仏法の真髄による人間革命である、と主張するのである。なぜなら、社会全体の価値観の転換は、一人一人の生命の奥底からの変革によって、初めて達成できるものだからだ。地道のようだが、確実な方法は現代においてこれ以外にないだろう。これまで、理想としては華々しく論じられながら、ついに実現化をみなかったのは、この一点を見逃したからだと思っている。
 静かな池の面に投じられた一石が、次々と波紋を描いていくように、それは、やがて、時代を変え、世界を変えていくにちがいない。この二十一世紀への展望を、パーキンソンの歴史法則流にいうと、近世以後、二十世紀にいたる歩みは、西洋の科学文明、物質文明が優位を占めた時代であった。そして二十世紀後半から、潮の流れは、徐々に流転を始めている。そして二十一世紀は、科学文明、物質文明を指導する偉大な東洋の精神文明が台頭する世紀となるであろう。
 二十一世紀は、また、世界文明の世紀でもある。極端な言い方だが、われわれが現代文明と呼んでいるものは、欧米と日本の、地球全体からみれば、ごく狭い地域に偏在しているにすぎない。これらの先進諸国と、その他、大部分を占める開発途上地域との、いわゆる南北問題は、今世紀末から二十一世紀にかけての、さまざまな国際緊張の原因になっていくにちがいない。仮に東西間のイデオロギー対立が今世紀中に解消したとしても、南北問題はなお尾を引くであろう。さらに、おそらくは、二十一世紀の主要課題になるのではないかとさえ思われる。
 なぜなら、東西のイデオロギー対立は、それを超克した高次元の哲学の登場によって、自然に融解することは間違いない。これに対して、南北問題の解決には、新しい世界秩序の樹立と、その運営という、この高次元哲学の具体的実践化を必要とするからである。

1
1