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日蓮大聖人・池田大作

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悔いのない人生を  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  高校時代を、半歩、大人の世界に入った段階とすると、中学時代は、少年期の仕上げをし、脱皮する時代といえるような気がします。
 子供っぽさが、残っていながら、なんとなく、そんなことをするのは、ばかげているのではないかと、思ってみたりするものです。特に、体のほうは、どんどん、大人に近づいていく。精神と、肉体とが、ともすればアンバランスになりがちなのも、一つの重要な特徴といえます。
 かつては、十七、八歳の、高校時代が、そうしたアンバランスから、間違いを起こしやすい、危険な年齢と言われたこともありますが、最近は、肉体的な成長が早くなって、中学時代が危険だなどと、言われているようです。しかし、これは中学生の皆さんが悪いのではない。時代とともに生命それ自体の、あまりにも急激な変化が、周囲の状況とかみあわないために、起こることなのです。
 だからといって、あきらめて、衝動のままに、好きなようにやっていけばよいというのではなく、それを正しい方向へ伸ばしていくよう、自分で、自分をリードすることを覚える必要があります。
 自分で、自分をリードするというと、難しいことのようですが、それは、自分のしなければならない、一つ一つの問題について、責任を果たしていくことです。クラスのなかで決まった役目や、家庭のなかで受け持った仕事を、きちんと責任をもってやりきることです。
 人間というものは、だれしも、楽をしたい、なまけたいという気持ちがあります。その気持ちに負けて、しなければならないことを、やらなかったり、途中で投げだしてしまったら、周りの人は、だれも相手にしてくれなくなります。みんなから信用されず、寂しい思いをするのは、自分なのです。
 社会は家庭という、小さな単位から、学校、さらに国にいたるまで、人間がお互いに信用しあうことによって成り立っているのです。ですから、責任を果たすということを、少年時代からしっかり身につけることが、社会人になるための、最も大事な訓練といえます。
 しかも、それは、どこか遠いところにあるのではない。一人一人の、ごく身近にある問題です。小さなことの積み重ねが、大きい結果を生みだしていくのだ、ということを忘れてはならないと思います。皆さんの年代に、身につけた人生の態度は、一生を貫く、黄金の筋金となるのです。
 私は、皆さんに、お説教めいたことを、言うつもりは、毛頭ありません。お説教などする、資格がないことは、自分が、いちばんよく知っていますから。
 ただ、皆さん方は、将来の、日本を、世界を、担う大事な人々です。日本を、本当に民主的な、平和な社会にするか、民主主義ではうまくいかないからといって、全体主義の社会にしてしまうかは、皆さんの心によって、決まるのです。いや、心というより、いま身につけた態度、行動と言うべきかもしれません。
 その場合、では民主主義を支え、民主的な運営を、実りあるものにしていくために、最も大事なことは何かといえば、それが、私は“責任感”だと考えるのです。
 民主主義社会は、人々に、自由と平和を約束してくれます。しかし、民主主義社会を支えるためには、人々は社会に、責任を全うすることを約束しなければなりません。この両方の約束の実行のうえに、民主主義は、揺るぎない社会を形成していくのです。
 戦後二十六年。日本は、民主主義を理想として、今日まで、進んできました。だが、残念ながら、戦後の日本の民主主義社会は、立派に運営されてきたとはいえません。それは、自由や、平和といった、社会から与えられるものを、要求することが民主主義のすべてであるかのように思ってきたところに原因があったと思います。
2  私は、今の日本を代表する世代の一人として、反省の意味も含めながら、申し上げるのです。皆さん方の手で、本当の理想的な、民主社会を実現していただきたい──と。
 そして、そのために、民主主義を支える、責任感ある、立派な社会人に育ってほしい──と。
 あらゆる角度からみて、中学時代は、自分というものを意識し、主張しはじめる年ごろのようです。両親の、言いつけにさからってみたり、教師に反発を感じたりするのは、この自分を、主張したいという、気持ちのあらわれなのです。
 それは、まったく自然なことなのですが、大人たちは、そのように考えないで、よけいな心配をしてしまう。それで、抑えつけて、言うことをきかせようとしたりするものです。少しは、自分の中学時代のことを思いだせば、皆さんの気持ちが理解できるのでしょうが、だいたい、そんなことは忘れてしまって、まるで模範的な少年期を送ったように思いこんでいるようです。
 残念なのは、そうした、大人の無理解に、ますます反発心を強くして、つい犯罪を犯してしまう少年たちが、少なくないということです。“危険な年齢”と言われるのも、このためでしょう。では、どうすればそのような反発が、犯罪などという、取り返しのつかない、過ちに暴走するのを防げるかということを考える必要があると思います。
 なんといっても大事なことは、幅広く本を読み、人生の正しい生き方を知ることです。小説でも、伝記でも、けっこうです。あるいは、思想、哲学の書でもいいと思います。自分が読みたいと思う本、友だちや、先生が、勧めてくれる本を、どしどし読むのです。
 小説や、過去の偉人の伝記など、その背景になっている時代や社会は、たしかに、皆さんのおかれている二十世紀の現代とは、異なっているでしょう。しかし、人間の生き方、人生の基本的なあり方、というものは、古代のギリシャ、ローマのそれも、中国の戦国時代も、日本の江戸時代も、あるいは近世ヨーロッパも、ほとんど変わっていないといっても言いすぎではないでしょう。
 むしろ社会的、時代的背景が違うからこそ、興味をもって読めるし、そのなかから、自然のうちに、人生にとって、有益な、さまざまな教訓が、身についてくるのです。そして、そういう知識が、ちょうど鏡のようになって、自分を客観的に見つめることもできるのです。また、自分は、このようになりたい、こういう人生を生きたいという考えが、しだいに芽生えてくるものです。
 少年期の自我のめざめは、ただ、それだけでは、他の人々と自分とを区別しよう、なんとなく、両親や、先生に、反抗してみたいという、感情的なものにすぎません。このめざめた自我を、正しくリードし、自分の人生に一つの方向を与えていくのが、読書のもたらす、最大の効用であると、私は思います。
 思想や、哲学の本も、中学時代の後半になると、かなり読めるし、内容も理解できるようになります。過去の思想家、哲人と言われた人々を見ると、その人の、生涯を決めた思想に、めざめた年代は、十代後半が、多いと言われるのも、このためではないかと考えます。
3  今は、テレビが、各家庭に普及し、皆さん方のなかにも、テレビを見るほうが、苦労がいらないし、面白いという人が少なくないでしょう。たしかにテレビも、役に立つ番組がないわけではありません。しかし、そのために、本を読まないというのでは、大きいマイナスです。
 読書は、根気のいる労働です。一冊の本を、最初から、最後まで読み通すことは、忍耐が必要です。しかし、人間にとって大事な、ものの考え方や、心の動きは、じっくり本を読むことによってこそ、学びとることができるのです。テレビだけでは、おおざっぱな筋を追い、体や、表情の動きを見せてはくれるが、細かい、精神の内面の変化はあらわせません。かりに、非常に上手に表現されていても、見すごしてしまえば、それっきりです。
 一冊の本の中に、一つの世界があり、いろいろな人生があります。人間一人が実際に、自分で体験できる人生は、一つしかありませんが、読書は、あらゆる人生体験を教えてくれるのです。人は、一冊の本を読むごとに、人生をより豊かにしていくことができるのです。
 それは、人生の激動期ともいえる、皆さんの年代においては、非常に役に立つ羅針盤となりますし、将来、大人になってからも、いろんな事態にぶつかったときの貴重な指標になることは間違いありません。
 しかし、皆さんは、本ばかり読んでいる、青白い、神経質な、青年になる必要はありません。中学時代は、肉体的にも、最も激しく変化する時です。中学一年の時は、まだ、子供っぽさがあったのに、二年になると、急速に変わり、三年では、大人と同じ体つきになっているものです。同じ学年の、同じクラスでも、人によってずいぶんと違っていたりします。まるで、大人と子供のように違う二人が、同級生の仲良しだったりして、はた目にも、ほほえましい光景が見られるのも、中学時代の特色のようです。
 これも、体が急激に変化する年代なればこそで、したがって、この時期は、体も、うんと鍛えることが大事だと思います。体を丈夫にしておくことは、将来、大人になった時、どういう方向に進むにしても、最も大切な条件になります。極端な例を挙げれば、学者や芸術家、あるいは知能労働にたずさわる人は、体の丈夫さなどとは関係のないようにみえる。しかし、頭脳を使う仕事も、健康な体があって初めて、大きい仕事ができるものなのです。
 少年期から青年期へ、子供の世界から大人の世界へ、大きく変わろうとする中学時代にスポーツで鍛えれば、内臓と筋肉が、バランスをもって健全に発達するのです。もちろん、スポーツにもいろんな種類がありますが、体の全体的な鍛錬のために、長い経験から考えだされたものであるといってよいでしょう。
 そればかりではない。肉体と精神のバランスということを考えても、スポーツは、きわめて効果的に考えられております。というのは、スポーツには、ルールがきちんと定められており、そのルールにのっとって、フェアプレーすることが要求されます。ルールを守ること、卑怯な行動をとらないこと、チームのなかで自分の役目を果たすこと、互いの弱点をカバーしあい、助けあっていくこと、これらは、あらゆる社会生活に共通する重要な精神だと思います。
 私は、生まれつき、体が弱く、少年時代も、みんなが元気いっぱいに走り回っているのを見ていて、うらやましく思ったことが、何度もありました。それ以来、機会さえあれば、無理のない程度で、体を鍛えるよう心がけています。
 特に、病気もなく、存分に暴れることのできる人は、運動部などに入って、しっかり心身を鍛えることです。大人になってしまってからでは、効果も薄く、そのとき後悔してもはじまらないからです。
4  未来に、伸びてゆく、皆さん方の、体の面での向上に、必要なものが健康であり、スポーツであるとすれば、精神の面での人格的な成長になくてはならないものが友情です。
 友情は、これから始まろうとする青春時代にのみ許された、人生の華であります。小学生のころには、友情というものについて意識して考えなかったでしょうし、四十代、五十代になってからは、純粋な友情は、なかなか育ちにくいものです。
 ただ、友だちであれば、どんな人でもよいというものではありません。よい友だちとの交際は、互いの人格を高めるものです。逆に、悪友との交際は、知らずしらず自分を堕落させてしまいます。非行に走る中学生のほとんどが、悪い友だちに影響されたためであるということは、よい友だちを選ぶことが、どんなに大事かを、よく物語っているのではないでしょうか。
 よい友だち同士でも、ときにはケンカをしたり、いろんな事情で別れてしまうこともあるでしょう。しかし、心の動揺が、激しい中学時代であれば、それは当然のことなのです。そうしたことも、人生という劇の中のひとコマであり、そのような経験のなかから、さらに一歩進んだ友情を、築いていくことができるのです。また自分に、最も適した、一生涯の友も、こうした経験を何回か、繰り返していくうちに見いだしていくことができるのです。
 では、友情とは、いったい何でしょうか。私は、主体性をもった一人一人が、信頼の絆で結ばれるとき、それが真実の友情であると思います。友だちの言うこと、することに、なんでも同調するのが、本当の友情ではありません。はた目には、非常に仲良しに見えても、一人一人に主体性がなく、付和雷同的にだれかについていくのは、正しい友情とはいえないと思います。 大切なことは、自分自身がどう考えるか、です。自分が主体性をもって判断し、行動する──。そうした一人一人であって、初めて、人生をともに考え、未来を語りあっていく、うるわしい友情が生まれるのです。互いの欠点も、うやむやにするのでなく、時には、厳しく戒めあうことが必要です。
5  信頼といえば、太宰治の小説『走れメロス』を思い出します。
 メロスを信じて、生命を託したセリヌンティウス、そのセリヌンティウスの信頼に応えようと、生命をなげうって走りつづけたメロス。互いに信じあった友情の美しさ。人間の尊厳さ。読む人に、深い感動を呼び起こさずにはいません。私は、皆さんがこのような、どこまでも信じあえる友をもつなら、どれほど、この世の中が、美しくなるだろうと思わずにいられません。
 また、友情に関連して、異性との交際も、皆さんにとって無視することのできない問題であろうと思います。迷っている人も、少なからずいることと思います。私の気持ちを、率直にいえば、異性の友と、付き合うことを、なにか特別なことのように考える必要は、まったくない、ということです。
 ただし、それは、あくまで、中学生らしい清らかなものであってほしいと思います。家族の人にもきちんと紹介し、知ってもらい、だれにも恥ずかしくない、正々堂々とした交際であってほしいのです。自分らしい、明るい友情を育てるべきだと思います。マスコミなどに影響されて、大人のマネごとのような、背のびをした付き合いは、自分自身を傷つけるだけのことです。
 ですから、今、最も大事な仕事である、勉強だけは、しっかりしなければなりません。極端にいえば、もし、そのために成績が下がるようなことでもあれば、異性と交際する資格は、ないと考えるべきです。このことを心にとめて、あとは賢明に判断してほしいと思います。
 最後に、戦争と、平和の問題について、どうしても訴えておきたいことがあります。
 皆さんのなかには、映画やテレビで、戦争の場面を見てカッコいいなと思っている人もいるかもしれない。たしかに、映画や、テレビのシーンでは、スタジオやロケーションでつくられたものですから、実にカッコよく描かれています。
 しかし、本当の戦争というものは、そんなものではない。むごたらしくて、汚く、悲しいものです。その実際の場面を見た人なら、二度と戦争だけは起こしてはならないと、真剣に考えるにちがいありません。私も、そうした恐ろしい場面に、爆弾や焼夷弾が、雨のように降る空襲のなかで、いやというほどぶつかりました。
 火の海の中を、逃げまどう、みじめさ、恐ろしさ。別れ別れになった父や母、弟や妹のことも心配で狂いそうでした。多くの人が、バタバタ倒れ、死んでいくのを見ると、悲しく、くやしくてたまりませんでした。やっとの思いで、川から海岸のほうに逃げました。
 まして、今は、武器の破壊力も、第二次大戦の時より、はるかに強大になっております。かつての焼夷弾は、ナパーム弾になり、一発で直径数十メートルが、超高熱の火の海になるといわれています。もし、核兵器や毒ガス弾、細菌爆弾などが使われたら、かりにそのときはうまく逃れても、やがては悲惨な死にかたをしなければならないでしょう。
6  二度と戦争を起こしてはなりません。それは、私たちのような、本当の戦争の姿を知っているものの責任であるとともに、これからの世代の人々に残す、切実な願いでもあります。
 今の日本は、まだ、戦争の時に、あまり恐ろしい体験をしないですんだ人たちが、権力をもっています。政界も、財界も、指導権を握っているのは、明治生まれの人々です。だから、戦争など、なんでもないと思っている人もいるかもしれません。
 一方、若い人々も、もう二十五歳以下の人は、戦後になってから生まれたわけで、これは、はっきりと、戦争の恐ろしさを知らない世代ということになります。
 もしも、戦後生まれの青少年が、戦争をなんでもないという人々に、おだてられて、ふたたび日本が戦争にまきこまれるようなことがあったらたいへんです。しかも、実際に戦争をさせられるのは、青少年のみなさん方なのです。
 そのような、恐ろしい事態におちいらないために、戦争は、絶対にいやだ、という意識をもち、その意思を叫びきっていくことです。
 また、さらに一歩進めて、世界中に心の通いあう友だちをつくり、やがて、皆さんが、日本の、世界の、指導権を握った時代には、世界が一つの国のようになり、核兵器も、生物化学兵器もない、平和世界を、築いてほしいと思います。それには、英語や、フランス語、ドイツ語などの外国語を習得することも必要でしょう。また世界の文学や、風習について知ることも大切でしょう。
 ともあれ、皆さんは、日本という狭い枠の中に閉じこもるのでなく、国際人、世界人、地球人として育っていってください。
 本当の世界平和は、政治家同士が、結ぶ条約、経済人同士の提携によって、もたらされるのではなく、生命と生命との間に結ばれた、信頼の絆によってこそ、実現されるものです。

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