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日蓮大聖人・池田大作

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石狩川  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私が、滔々と流れゆく石狩川を渡ったのは、ただ一度だけである。恩師の故郷にうかがうために、清新の思いで真夏の岸辺に立った。深く、雄大なる野性の流れを思い浮かべるとき、ありし日の『石狩川』の作者の俤が蘇ってくる。
 本庄陸男は『石狩川』の作者である。彼はそのあとがきにこう述べていた。
 「川鳴りの音と漫々たる洪水の光景は作者の抒情を掻き立てる。その川と人間の接触を、作者は、作者の生れた土地の歴史に見ようとした。そして、その土地の半世紀に埋もれたわれらの父祖の思ひを覗いてみようとした」
 著者畢生の大作である。未完とはいえ、この八百枚の小説は、広大な北海道の原野の開拓と取り組む群像を見事に描写している。
 物語は、明治維新によって没落した、旧仙台藩の小藩の武士たちが、海を越えて北海の大地に渡り、石狩川の沿岸に移住するところから始まる。荒涼たる大自然のなかで、原野を切り拓いていく、新生へのさまざまな苦闘が描かれていく。
 作中の中心人物は、阿賀妻。元家老であり、この開拓団の指導者である。彼は旧藩主の伊達邦夷を奉じて、多くの武士たちを敢然と率いて進む。そして、この阿賀妻の熾烈な情熱と、強い指導力によって、訴えるところもなく、人間扱いされぬ、未開の困難を一つ一つ打破していくのである。
 しかし、淘汰に生き抜く開拓団も、内部の身分関係は、旧態依然としていた。藩主は藩主、家老は家老のままである。作者の意図は、この封建的身分関係が、北海道開拓という至難の道のなかで、地主と小作人の関係へと変質していく様子を描くところにあったように見うけられる。
 作者の本庄陸男は、明治三十九年、北海道に生まれた。家族は士族出身で、石狩川のほとりに住んでいた開拓農民である。青山師範を卒業し、小学校の教師、書籍編集者などをしたあと、郷里に帰り『石狩川』の構想を練って、昭和十四年四月に第一部を脱稿した。その三カ月後、三十三歳で夭折している。
 旭川に向かう車窓から、広々とした石狩平野を眺めるとき、初めて、北海道にきたという実感がわいてくる。その中央を蛇行する石狩川は、石狩岳に源を発し、全長二六二キロ、その壮大な流域は、豊沃な農牧地として、北海道を象徴しているといえよう。
 自然の環境と人間の関係は、つねに切りはなすことはできない。川もまた、人間にとっては、強大にして不思議な働きをもっている。メコン河、メナム河、ガンジス河、黄河等、アジアの河も、それぞれに「母なる河」「聖なる河」として、人生の運命を歌いながら、意義を含めて流れている。
 静かに流れる石狩川にも、千古以来の歴史がたたえられ、この川を眺めながら、震怒の日、憂苦の日を送った、さまざまな人生の凄まじい年輪が刻まれていったことであろう。
 私は、今なお「石狩川」に立った響きを忘れられない。父祖の地をさぐり、みずからの生命をたたきつけるように書いた、青年作家の彫塑にも似て、川に立ち、純粋な魂の訴えと、悲運とを、忘れ去ることができなかった。

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