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日蓮大聖人・池田大作

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「資本」ということ  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私たちの生きている現代を、資本主義社会とは、実によく名づけたものだと、時折、感心しています。ことに金融資本の奴隷などという言葉は、現代人が多かれ少なかれ、資本の毒気にあてられている以上、なかなかうがった言葉だと私は思います。
 少なくともここ百年というものは、人はなによりもまず「資本」に拝跪してきた時代だったといってもよいでしょう。現代の人は、神や仏を信じなくなったかわりに、資本の力はいやでも信じているようです。その姿を、しげしげ眺めてみると、資本宗に対する信仰というものは、なかなかのもので、時にまったく主流的とさえ思われます。現代の指導者の多くは、資本への信仰の強弱によって、その地位を獲得しているのではないでしょうか。
 これは、現代の資本主義社会における通俗な姿といってもよいのですが、では資本の害毒を知って、資本主義社会を打倒して、社会主義社会を建てたとしても、根本の事情は――それほど変わったものとはなっていないようです。
 なるほど、社会主義国家では、資本主義国家の、いわゆる「資本」というものは消滅しているようにみえるけれども、こんどは、それにかわって、一切の資本を一手に掌握した国家資本という抜きさしならない存在が暴威をふるうことになる。社会主義の権力者たちは、同時に国家資本を一手に握る巨大な大資本家ということになります。社会主義国における首脳者たちの、あの強大な権力は、政治的権力のほかに、手中に収めた強力な国家資本の背景がなければ、あのような生殺与奪の権を思いのままにふるうことはできないでありましょう。これまた、資本に拝跪しているものの姿と考えられます。
 してみると、現代のさまざまな暴力のうちで、人々の生活に最も生殺与奪の暴威をふるっているのは、資本の暴力ということになりそうです。では、この資本の暴力をどうするか――今世紀の最大の課題の一つは、依然として資本の威力を、どう処理すべきかにかかっています。
 この暴力の弊害を除去するために、資本主義国では、修正資本主義の理論とか資本の大衆化とか、いろいろな工夫を凝らしておりますが、社会主義諸国でも新経済政策などという修正社会主義ともいうべき新理論が、論議の的にもなってきました。しかし事情は、はるかに深刻であり、ほとんど効果らしいものは、あがっていないとみるのが正しいようです。
 巨大な資本は、今世紀の無気味な妖怪の一つであります。この妖怪をだれがどのように退治するかが、おそらく二十一世紀へかけての緊急課題であり、それはもはや、現実が強いる必須の要請でもありましょう。
 早い話が、水俣病患者の公害企業を相手としての闘争は、その企業の株主になることで、問題の突破口を得ようとしています。つまり、その公害企業の一株主としての権利を行使することによって、内側から資本の暴力を少しでも抑制し、企業体の資本を操作して、こうむった被害の補償を有利にしようという意図であります。問題は、必要に迫られてここまできているのです。資本が一部の大株主に握られている現状は、なんらかの手段で改革を要する緊急事態となってきたようです。このままでは、資本の暴力は、繁栄のかげで、ますます人間生活を圧殺することになるでしょう。現代社会の根本的な矛盾の多くは、ここらに胚胎しています。「株を庶民の手に」などというと、証券会社の広告文みたいになりますが、企業が公共性を帯びれば帯びるほど、現在の資本形態を改める方向に向かわねばなりません。
 資本を広く社会化し、その操作を公平に行い、大株主の持株を――ある率に制限するような手段を講ずる、新しいタイプの経営理念を、私は今、待望するのです。

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