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日蓮大聖人・池田大作

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倫理感について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  わが国で政治家ほど倫理感覚について大目にみられている存在はない、と言った学者がいる。倫理というと、ひどく難しいことのように考えられるかもしれないが、要するに、「倫理」とは人の踏み行うべき道の謂であろう。政治家に倫理感覚が著しく乏しいということは、人間として踏み行うべき道を意に介さぬ人間が、人々の生命と生活をあずかり支配している、ということを意味するものにほかならない。
 国民が有毒の添加剤を含んだ食品を、食膳に並べあつらえている実態を知れば、これを阻止することに全力を挙げるのが人間味のある政治家というものであろう。庶民の日々の食膳に欠かせぬ生鮮食品や主食の米などが、不当に高い値段で押しつけられているなら、これを正当な価格に下げるよう努力してこそ、政治家としての務めを果たしたものといえるのではないか。
 古来、儒教でも倫理の根本を“仁”と説いてきた。“仁”とは他人に対する思いやりであり、慈しみであり、博愛であると思う。これを仏教では慈悲と説いている。キリスト教の愛も、やはりその意味するところは同じであろう。一人の隣人たりとも、困っている人、苦しんでいる人があれば、互いに慈しみを寄せ合い、救いの手を差しのべていくのが、人として行うべき当然の道とされているのである。まして政治家は、幾十万あるいは幾千万の人々の生活と生命の安全を預かる立場である。その重大な責務を遂行できるように、特に与えられた権利が“権力”というものなのである。
 昔の国王、君子といい、今の議員、大臣といっても、形や名称こそ変われ、本質的な権利と義務には変わりはないゆえに、かつての君主制においては、国王や皇帝、天子になるべき人は特別に“帝王学”を教えられ、将来得るべき権利を正しく行使するための原則を身につけることが要求された。なかんずく中国古来の儒教道徳は、巨大な帝国を統治するにふさわしい帝王を育てるための、基本倫理を体系化したものといってよい。
 時代は変わり、今日では、生まれながらにして帝王たるべき資格をもった、特定の個人に、権力が付与されるということはなくなった。選挙という手続きさえ経れば、だれにでも平等にその資格を手に入れる道は開けているのである。他面、終身制ではなく、かならず任期があるということも顕著な相違点である。たしかに、形式は変わった。しかし、在任中の与えられた権限の大きさからいえば、現代の政治家も、決してかつての帝王と異なるところはない。ところが、ここに民衆にとって新しい悩みが生じてきた。
 “新しい帝王”は“精力”の大半をその地位につくために費やしてしまい、よき“帝王”としての研鑚、努力は、とかく第二次的なものとして、なおざりにされがちである。つまり政治手腕とは、よりよき統治の技能よりは、むしろ地位を獲得し、確保するための、権謀術数を意味するようになってきたのである。
2  本来、政治家は、その責任の上からいえば、最も人間的心情を豊かにそなえた人でなければならない。ところが現代政治の機構は最も人間的心情を失った――野心家のみが政治家になれるような結果を招いている。これは民衆にとって最大の不幸といわなければなるまい。
 現代社会の政治的な諸問題の根源は、この政治家の資質という一点に帰着すると、私は考えている。また心ある人々も当然そう思っているにちがいない。もちろん、具体的な政策上の議論も大事であることは当然である。しかし、そうした政策論議の大部分は政治家の資質といった問題を、すでに自明の理として――というより、むしろ棚上げして、戦わされている場合がほとんどである。ようやく今になって、自明の理であり解決ずみと考えられていたことが、少しも解決されていないことに気づいたわけだ。いな、もっと正確に言えば、実は、人々の無関心をいいことに、政治家の資質のレベルは、急速に低下していったといっても過言ではあるまい。
 民主主義という政治体制は、生命の尊厳、個人の人格の尊重を基本とする。ということは、民主主義がそれを可能にするのではなく、それを前提として成り立つという意味である。その前提としてきたものが、よく考えてみると、少しも信ずるにたる具体性、真実性をもっていなかったのである。
 これでは民主主義は生命のない人形である。いわば、アスファルトの真下が、空洞化してしまった高速道路のようなものだ。見栄えはいいが、危険このうえもない。この一点に思いをいたさぬかぎり、どんなに民主政治の体制と機構を完備しようと、「人民の人民による人民のための政治」は、むなしい掛け声で終わってしまうだろう。
 だが、今のところ“人間失格”の病を、根本的に治療する有効な方法はどこにもないのだ。およそ人間失格の最たる人物が、民主的選出法で代表として選ばれてくるところに、現代社会の病源の深さが察せられよう。人々も自分たちが一票を投じようとしている人物が、かならずしも人間として優れているとはかぎらないということを、暗々裏に承知しているように思われる。それにもかかわらず、選挙のつど、多くの人は律義に投票する。他に代わるべき人もいないから、だれにしても同じだという諦めか、それとも、そうしたことは、今さら問題にするまでもないという無関心におちいってしまっているのであろうか。
3  こうした現状に対して、私の最も訴えたいことは、この“人間としての資質”を育てる基盤となってきたキリスト教の愛や儒教の仁、仏教の慈悲といった理念が、ふたたび現状を改革するだけの力と生命をもちうるかどうか。それを今一度、深く考えてみることが問題のカギとなろう、ということである。
 私自身、仏法を求める者として、仏教の慈悲という理念に、最も深い関心をいだいていることは言うまでもない。しかし、だからといって、キリスト教の愛や儒教の仁などの理念の価値を貶めるつもりは毛頭ない。少なくとも、それらの教えが人々の精神生活を支えていた社会にあっては、これらの理念は、人格形成の豊かな土壌をつくることに大きな役割を果たしてきたからである。問題は、その教えが、かつてと同じように、今なお人々の心を引きつける力をもつことができるかどうかにかかっている。ここに宗教の復権という新しい論題が立ち現れてくるが、この問題については、今ここではふれない。
 いずれにせよ、政治の基本が人間の精神に深くかかわるものである以上、人間精神の深奥の問題に対する理解なくしては、問題の有効にして正当な解決はありえないことを再認識する必要があろう。
 なお、言うまでもなく、宗教の問題は、あくまで精神の内面の次元に関することであって、政治の表面で争われるべき問題ではない。つまり、宗教の問題はあくまで人間性の根底にかかわるものであり、政治の場における具体的な問題に、なんらの媒介もなく直接的に結びついてくるものではないということだ。それだけ、この新しい宗教は、人の心をとらえうる力ある宗教でなければならないことを付言しておきたい。

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