Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間とコンピューター  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  コンピューターの出現が、巷間で言われているように――時代の、大きな転機をもたらそうとしていることは間違いない。
 人間宇宙船が、あの月面の世界に到着した時、人々は、飛行士たちを讃えた。しかし、それ以上に、この偉業を推進した、優秀なロケット技術と複雑きわまる軌道計算を、見事にはじきだしたコンピューターの性能に、むしろ驚嘆したのであった。
 コンピューターは、がぜん人気を呼び、今や、管理社会の神経にさえなろうとしている。しかし、それと同時に、ふたたび“人間とは何か”ということが、問い直されはじめていることも事実だ。――つまり、ホモ・サピエンスとしての人間にとって、その頭脳を代行するかもしれぬコンピューターの登場が、人間存在の原点に対して、深刻な疑問を投げかけはじめたのである。
 さっそうと――登場したこの新しき頭脳も、一歩誤れば、人間の主体性を奪いとり、現代人をますます人間疎外の泥沼に沈めることになっていく。正直なところ、私も、こうした危惧を、心中ひそかに抱く一人である。
 たしかに、コンピューターは、ある面では、生きた人間の、いかなる頭脳もおよばない、優秀さをもっていよう。しかし、それは、客観的に記号化し、数量化できるものに関してであって、本来、数量化されない人間性を対象とすることには、大変な誤りがともなう危険がある。
 まして、人間の、私生活の内部にまでコンピューターの支配がおよんでくるようになった時には、人間の価値は数量化され、人間性の認められる場は、この社会から確実に奪い去られてしまうであろう。それは、いわゆる“コンピューター公害”となって、人間から、人間としての、生命を消し去っていくといっても過言ではあるまい。
 コンピューターは、今のところ、人間の忠実なる下僕である。たしかにある面では、人間より、幾千倍も優秀な頭脳である。だが、その一面の優秀さを過信すると、やがて、人間はコンピューターの奴隷になってしまうかもしれない。いな、現在の段階でも、人間性をコンピューターの対象とし、その結果をもって、その人間の運命を決するようなことは、多分に人間を奴隷化する危険性を秘めているといわなければならないであろう。
 よく「人間は機械の賢明な扱い方を知らぬうちに、あまりにも、それを発達させてしまった」といわれるが、その憂慮は、コンピューターの登場によって、一層、色濃くなってきたといってよいようだ。
 だからといって、かつてのイギリスのラッダイト運動のように、コンピューターの打ち壊し運動をすることは、私は、絶対に反対だ。時代の流れを、逆流させることは、決してできぬからである。
 ――問題は、コンピューターの賢明な使い方を知ることである。ここで“賢明な”というのは、ほかならぬ、人間自身の賢明さである。
 その第一歩は、まず、コンピューターの扱うべき対象と、そうでない対象とを明確に立て分けることである。その判断の基準は、私は、人権を第一義とすべきであり、それを侵害することのないよう、未然に、規制措置が講ぜられなくてはならないと主張したい。
 さらに、ここで“文明と人間”という問題に、正しい解答を与えるべき時を迎えたようにも思えてならない。コンピューターと人間のテーマは、帰するところ“文明と人間”というテーマの、きわめて、現代的な一断面であると思うからだ。
 人間にとって、文明は、いかにあるべきか。この問題の根源をたずねていくと、どうしても生命の尊厳ということに落ち着いていくであろう。カントの言うように「自身の人格並に他のすべての人格に例外なく存するところの人間性を常に同時に目的として用い決して単に手段としてのみ使用しないよう」(『道徳形而上学原論』篠田英雄訳、岩波文庫)心しなければなるまい。
 文明の、文明たるゆえんは“生命の尊厳”を守ることにこそ、求められるべきであって、それを破壊し、踏みにじる文明は、愛すべき未開の野蛮とちがって、最も恐るべき、邪悪な野蛮なのである。

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