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日蓮大聖人・池田大作

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日本は“公害実験国”か!  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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1  ひところ“未来学”がブームを呼び、華やかで、豊かな、未来像を描くことが流行した。それは、つい先ごろのことである。
 ところが、その夢も醒めやらぬうちに、そんな未来を人類は、果たして迎えられるのだろうか、それまでに滅亡してしまうのではないかという、きわめて深刻な疑問が、学者や、ジャーナリストによって提起されはじめた。
 繁栄の絶頂に向かっている人類、科学技術の巨大な力を、自分のものとした人類が、そんなに身近に滅亡の危機をひかえているなどとは、たしかに信じがたいことではある。だが、学者たちが、公害の実態を通し、環境破壊の実情をあげて示すのをみれば、信じたくなくとも、信じないわけにはいかない。
 未来学者の描いたバラ色の世界は、科学技術が自然を征服し、追放したところに現出する理想郷である。今、提起されている人類絶滅の危機は、そうした自然の征服、追放、破壊によって、人間がうける脅威にほかならない。この相反する二つの未来像が示しているものは、人類の運命に関係してくる進路の選択である。つまり、人類は、科学技術の勝利に一切を託して、自然とあくまで敵対していくべきか、それとも、自然と和解し、自然に調和する道を選ぶべきかという二者択一の分岐点にさしかかっているのである。
 少なくとも、産業革命以来、人類は、科学技術の力に運命をゆだね、無謀ともいえる自然の破壊、汚染をつづけてきた。たしかに、科学技術の急速な進歩によって、物質的な富は増大し、生活の環境的条件は、まことに便利になってきた。この一面だけをみれば、科学技術の進歩は、善であり、その延長線上に、未来学者の描くユートピアの実現も、それ自体としては、嘘ではあるまい。しかし、その半面にある、自然の破壊、汚染が、そうした科学技術の成果の増大にともなって、同じく激増し、拡大していくことも、また事実である。われわれ人間存在は、人間が生みだした科学技術からも、地球が、その悠久の歴史によって築いた自然環境からも、計り知れない恩恵を受けている。人間として、生きるためには、両方とも欠かせないことは当然なことであろう。――ここで、考えなければならぬのは、科学技術の進歩の名のもとに、われわれに提供されているものの多くが、単に、生活の便利を促進するだけであるのに対して、自然が、もたらしてくれているものは、生存の最も基本的条件となる、恩恵であるということだ。
2  自然の恵みは、それが、豊かであればあるほど、ありがたさが忘れられてしまう。空気にせよ、水にせよ、大地にせよ、みな、そうだ。それが欠乏したときに、初めて人間は、それらの恵みが、いかに偉大であったかを知る。高度な文明の営みも、人間としての知的活動も、これらの基礎条件が満たされてこそ、可能なのである。
 しかも、人間の生存にとって、欠かすことのできない自然の恵みは、何十億年もの、地球の歴史と、営々たる、生命の流転によって、今日の姿を築きあげたのである。酸素ひとつにしても、もともとは、大気を構成していたのは、メタンガスと炭酸ガスであった。そのなかから生命が誕生し、植物が繁茂し、その炭酸同化作用によって、酸素が分離され、蓄積されてきた、と聞く。
 現在、人類は、産業、交通機関によって大量の酸素を消費し、大自然が蓄えた、この至宝を減らしはじめた。加えて、森林の伐採や、海洋汚染による植物性プランクトンの減少で、酸素を作ってくれる生物も、また減っている。このままでいけば、やがて人類は、酸素の欠乏で窒息し、死に絶える以外にないだろうと予測されている。
 先に、私は、自然と、このまま敵対関係をつづけるか、自然と和解し、調和するかの、二者択一であると言った。この表現は、あまり妥当でないようである。なぜなら、人間は、生存していく以上、自然の恩恵に浴し、自然と調和していくほか、道はありえないからである。ただ、文明の、より以上の建設、展開にあたって、野放図に、これまでのように、自然の破壊と汚染をつづけていくか、自然の恩恵にめざめ、自然を大切にしつつ、人間文化の進歩を図っていくかは、実に、重大な選択問題であるといわなければなるまい。“公害”が投げかけた問題は、実は、こうした人類の新しい危機であり、これを解決する方法の探究は、環境としての自然、人間の生存を支える自然に対して、人間は、どのような関係を結ぶか、ということから思考されなければならない。当然、それは、さらに掘り下げると、人間を、いかなる存在としてとらえるかという問題にまで帰着するであろう。
 残念なことだが、わが国の公害問題の焦点になっているものは、特定企業の、道義的欠陥による事件の域を出ないようである。それは、被害のおよぶ範囲も局部的であり、その源になっているものも明確である。したがって、これらの問題の多くは、災いを生じた、企業経営者の道義感の欠如と、被害者やその家族に対する補償を、どうするかという観点で争われている。
3  たとえば、九州の水俣で起こったので、水俣病と呼ばれる水銀中毒事件は、工場の廃液中に含まれた有機水銀が、魚介類を通して人体に入り、発生したのである。同じ水銀中毒は、新潟県の阿賀野川流域でも起こり、これは第二水俣病と呼ばれている。
 これと同系統に入るもので、カドミウムによるイタイイタイ病がある。その代表的な例は、富山県の神通川流域に発生した。水銀中毒によるものは、中枢神経を侵され、全身がマヒし廃人となっていく。カドミウムによる症状は、激痛をともなって骨が崩壊していくもので、そのために背丈さえ縮んでいく。このために、本人も、家族も、うける苦しみは、今まで考えられた、最も残虐な殺人もおよばないほどであるといえよう。
 有機水銀にせよ、カドミウムにせよ、人体にとって、いかに危険なものかは、最初から分かっているはずである。狂人でないかぎり、それを多くの住民が、生活のよりどころにしている、河川や、海へ流したとき、いかなる結果になるかということも、分かりすぎるほど分かっているにちがいない。それを、平然と流してきた企業家の心理は、まさに非情な冷血漢というより言いようがない。
 おそらく、彼らは、そうした廃棄物の処理について、自分の工場でやらなかったのは、それだけの資金の、ゆとりがなかったからだというであろう。そして、そうした問題意識だから、これだけ世論の非難をあびるようになっても、なおかつ、公害対策の費用を自治体や、国から取ろうとしているのであろう。
 国や、自治体の予算とは、結局、国民の税金にほかならない。自己の利益のために、人々の生命の損失など、問題にしないという“エコノミック・アニマル”の傲慢な論理は、少々の世論の攻撃では、いささかも屈しない、しぶとさをもっているらしい。
 これら企業家の犯した罪悪は、単なる“汚水”のたれ流しではない。そのために、死者が何十人も出たということは、殺人という最も重い犯罪である。にもかかわらず、企業家は、科学的根拠が薄弱であると言ってシラを切り、住民を守るべき行政担当者は、その企業が重要な歳入源であるから、これを庇おうと躍起になってきたようであった。住民の多くも、その町が、工場のおかげで栄えているのだと信じ、長いものには巻かれろ式に、諦めてきた。恐るべき犯罪が、政治と経済のなれあいによって、無力な庶民の前に、大手を振ってまかり通ってきたといったら言いすぎだろうか。
 彼ら企業家は、金のためなら、殺人を犯すのも当然と思っているのであろうか。役人たちも、繁栄するためには、犠牲が出るのも、やむをえないと考えているのだろうか。犯罪の事実が、明らかになった今も、彼らは補償金で、なんとかけりをつけようと懸命になっている。いったいに、まったくの過失によるのならともかく、殺人の罪が、金であがなわれる文明社会が、どこにあるのだろうか。いな、もし、そんなことの通用するのが文明社会だとしたら、文明とは、存在する価値があるだろうか。
 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。……そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。……それでよか」(石牟礼道子『苦海浄土』講談社)
 ある水俣病患者は、そう言ったという。四十二人とは、水俣病による、当時の死者の数であり、六十九人とは、同じく患者の数である。患者の、この言葉の底にあるものは“眼には眼を”の、原始的な報復の論理であるかもしれない。しかし、素朴な、生命の深淵から発せられた、この告発は、文明社会の偽善性を微塵に打ち砕いていくようである。
4  ともあれ、現状のわが国の公害論議で、一番の焦点になっているのは、そうした卑近な問題である。私は、これを“公害”と呼ぶのは、責任の所在を、ぼかすものでしかないと思う。“公害”という名のもとに、加害者でありながら、被害者を装って、あげくの果ては、企業としてなすべき責任を、公共の費用で肩代わりさせる恐れが多分にある。犯した罪も、殺人ではなく公害という架空の存在に負わせられるのが落ちであろう。
 したがって、これらは、あくまで企業の責任による、未必の故意の殺人として扱われるべきであり、被害者や、被害をうけるかもしれぬ民衆は、企業当事者および、それをかばおうとする者に対して、厳しく追及するのが当然であると考える。
 むしろ、われわれが、真の“公害”として対処しなければならないのは、一個人や、一企業の道義的責任感や、努力だけでは、どうしようもない、広範な、空気、水、土地の破壊、汚染である。つまり、加害者であっても、同時に被害者であることをまぬかれぬ、環境全体の破壊と汚染である。
 大気についてこれをみると、先にも触れた酸素の減少は、いわば環境破壊の側面であるが、これと同時に、亜硫酸ガス、鉛、一酸化炭素、煤塵などの汚染も、急速に進行している。その発生源は、工場や自動車、飛行機など、石油をエネルギー源として使用していることにある。
 ゆえに、汚染の濃度が高いのは、当然、工場密集地帯や、大都市であるが、大気の流動によって、汚染は地球全体におよんでいく。ガソリンのオクタン価を高めるために、四アルキル鉛が添加されている――その鉛が、グリーンランドの氷の中からも検出されたことは、広く、新聞などに報道されているとおりである。また、亜硫酸ガスは、雨の中に溶け、硫酸ないし亜硫酸となり、金属類を腐蝕させていく。ベニスなどでも、工業地帯ができたため、歴史的なブロンズの彫刻などが、無残にただれはじめ、深刻な問題となっている。
 人体への影響は、言うまでもない。工場地帯や、自動車の交通が頻繁なところでは、排気ガスによる肺や気管の疾患が、当たり前のことにさえなっているようだ。死者が出るほどの汚染は、今のところ、限られた地域であるが、全体的な汚染の進行も、時間の問題でしかないであろう。
 さらに、酸素の減少と炭酸ガスや煤塵の増大は、大気の温室効果に影響し、このまま進むと、全般的な気温異変をもたらすといわれている。もし、気温が上昇して、極地や高山の氷がとけると、海水面は、数十メートル上昇すると計算されている。海水面が、数十メートルも高くなるということは、世界の大都市のほとんどと、農地の沖積平野が水没してしまう。人類の蒙る損失は計り知れぬものがある。逆に、煤塵が急激に増加し、日射量が減少し氷河期が訪れるという説もある。とにかく、地球上に大変化が起こることは、多くの学者の予想しているところである。
 水の汚染については、先に述べた工場廃水中に含まれる重金属に加えて、各家庭から流される洗剤や、汚物の問題がある。大都市を流れる河川は、ほとんど死の川と化しており飲料水として使用するにも、浄化はギリギリの限界にまできている、と聞く。土地の汚染については、殺虫剤や除草剤などの化学薬品が大量に散布され、それが植物や家畜を通して、人体に侵入してくる問題である。そうした薬品の多くは、肝臓や腎臓の機能を侵すことが分かっている。
5  こうした、大気、水、土地の汚染、破壊は、特殊な場合を除いて、一般に人類全体が被害者であるといってよく、加害者の立場にある者も、その例外ではありえない。したがって、これらの“公害”を除去することについては、究極的には、いかなる立場の人も、等しく望むところであろう。
 そのためには、産業、社会体系そのものの全体的な変革がなされなければならず――科学者、政・財界人、一般民衆を含む、広範な協力体制が必要であろう。石油産業、交通運輸、農薬等々、いずれも、現代の産業社会に占める比重は、あまりにも大きい。それらにからまる抜本的な変革となると、並大抵なものでないことは、今さら、言うまでもあるまい。たしかに、言うはやすく、行うは難い事業である。しかし、そこに人類の運命が、かかっていると思えば、たとえ、いかなる困難があっても、絶対にやりとげなければならないのだ。
 私が、訴えたいのは、根本的な姿勢の転換である。つまり、今日までの産業社会、科学技術文明の底流にも、それなりに哲学があった。その哲学の上に、経済も、政治も、研究機関も、おそらくそのすべての活動が統合されてきたがゆえに、現代の物質的繁栄がもたらされたといってよい。その哲学は、進歩への信仰であり、環境支配のあくなき欲望である。“公害”によって、露呈された現代産業社会の欠陥は、部分的な手落ちや、誤算などといったものではない。社会体制全体の誤りであり、文明の根底的な歪みから生じた問題である。それは、人間を、いかなる存在としてとらえるかということからはじまり、人間と、それを取り巻き、支える文化的、自然的環境との関係のあり方について、まったく新しく設計し、構築し直さなければならない。
 公害問題の提起している課題の本源は、このような膨大かつ深刻なものであり、これについて、抜本的な解答を出さぬかぎり、問題の根本は永久に断ち切れないであろう。そして、一つの問題を解決しても、そこには、新しい問題がまた生じ、対策は、いつまでも後手後手となってしまう。すでに、公害に深刻な脅威を感じている人々のなかには、科学技術文明そのものを否定し、自然に還るべきだと、強く叫んでいる人も少なくない。そうした文明拒否の風潮は、このまま進めば、さらに拡大していくにちがいない。だが、現に、人類は、公害というマイナス面に苦しみつつも、ともかく科学技術文明によって、生命を支えられているのである。もし、科学技術を否定し、破壊したときは、膨大な人々が生命を維持できなくなってしまうだろう。
 したがって、われわれ人類として進みうる道は、おのずから決まってくる。それは、科学技術文明の生産水準を維持しつつ、マイナス面を最小限に食いとめる、新しい技術的、社会的産業体系を築きあげることである。
 では、そうした新しい産業、社会体系、文明の建設のために、どのような哲学が基盤とならなければならないか。人間生命の尊厳が、その最も基礎的なものであることはいうまでもないが、ただし、その人間生命の尊厳とは、環境としての自然、この宇宙と自然を形成する総体としての生命から遊離し、断絶したものという考え方であっては、断じてならないと言っておきたい。
 生命の尊厳――というかぎり、それはキリスト教でも、マルキシズムでも、いかなる思想でも、共通して、提唱してきたことである。現実には、科学の進歩や、国家の威信、利益の追求のために、尊厳なるべき生命がつねに犠牲に供されてきたが、理念としては、だれしも生命の尊厳を、否定したことはあるまい。
 今、公害の問題を考えてみると、先に私が“未必の故意の殺人”として、扱われるべきだといったようなケースでは、たしかに、文句なしに“生命軽視”の疑いが濃い。しかし、いわゆる一般的な“公害”の場合、その害を生じているのは、人間の独善と、思い上がりであって、それはそれなりに“生命の尊厳”に発想の基盤をもっているのである。
6  そう考えると、摘発されねばならぬのは、まさに、そのような、独善と思い上がりに通ずる“人間生命の尊厳”観であるといえよう。人間生命を尊厳とする贋の思想が無制限な自然の破壊と汚染を許し、それが、ひるがえって、人間生命の存在を、脅かしはじめたのである。
 人間は、今さら事あたらしく言うまでもなく、それ自体、自然のなかの一つの生物である。生命体としての、その機能の大部分は他の生物のそれとまったく変わらない。他の生物が、環境によって、その生存を限定されているのと同じく、人間もまた、環境によってその生存の条件を限られている。むしろ、肉体的な適応能力は、他のどの生物よりも弱いとさえいえるのではないだろうか。
 人間はたしかに精神的存在であるかもしれない。しかし、それは自然的存在であることを無視してはありえない。
 人間の生存を支える環境を考えるとき、それは、気候、風土、地形といった、いわば無生物の環境と、他の動物や植物によって形成される生物的環境、さらに人間自身がつくりあげた文化的、社会的環境がある。人間は、これらの織りなす微妙な調和と、その総体に対する人間の調和とによって、初めて生命を維持し、活動していくことができる。
 しかも、人間が、それ自体、一つの生物であるということは、大自然をつくりあげている悠久な生命の環の一部分であるということでもある。その環は、全体が幾重にも重なり合った、生命の連鎖であって、一つが壊されると全体が狂っていくし、一カ所に毒物が混入すると、全体が汚染されていく。
 これまでは、人類の数も少なかったし、汚染物質も、もともと、生命的自然のなかに馴染むものであったから、破壊も汚染も、自然の活動によって癒され、解消されてきた。その結果、人々は、そうした自然のもつ特質、機能を忘れ去り、自然は生存に必要な、たとえば空気などを無限に提供してくれるものと考えてきたのである。
 ところが、人類の数は、文明の発展とともに急激に増え、自然の富を消費する産業の規模も、想像もつかぬほど大きくなってしまった。そして、無限と思いこんできた自然の恩恵が、実は、地球という、この宇宙空間に浮かんだ“宇宙船”の貯蔵物資にほかならないことが分かってきたのである。
 もちろん、その貯蔵物資の補充は、地球上に繰り広げられている無数の生命活動によって、行われてはいる。だが、今の人類文明は、そうした自然の再生産をはるかに上回る消費をつづけ、しかも、自然の破壊、汚染によって、そうした再生産にたずさわっている生命的自然そのものを破壊しているのだ。
 自然を、人間に征服されるべきものとし、いくら破壊され、犠牲にされてもかまわぬとする“ヒューマニズム”は、実は、人間のエゴイズムであって、かえって人間の生存を危うくする“アンチ・ヒューマニズム”にほかならない。真のヒューマニズムは、人間と自然との調和、もっと端的に言えば、人間と、それを取り巻く環境としての自然とは、一体なのだという視点に立った“ヒューマニズム”であるべきである。
7  本来、人間の英知は、自然との調和なくしては、生きることも、幸福を得ることもできないことを知っていた。このゆえに、あるいは、自然の万物に霊を認め、これを崇拝し、あるいは、宇宙、自然の総体を統べている超自然の当体――ないし法を想定し、これに冥合しようとしてきたのである。人間を、自然に超越するものと思い、目先の欲望に迷って破壊と汚染を進めてしまったのは、自然への叛逆であるとともに、人間自身への叛逆であったというべきであろう。
 現代社会の直面している“公害”という落とし穴は、自然の破壊と汚染の結果であるが、それは、人間存在自体への叛逆の酬いでもある。したがって、この問題解決の、根本的な方途は、人間存在の本源を究明し、それにしたがって環境との調和と、一体化を図っていくところに求めうるはずである。
 その人間存在の本源とは、それが生みだされ、過去何百万年の間、その懐にいだかれはぐくまれてきた、自然との調和と一体化のなかに求められなければならないだろう、というのが私の考えである。つまり、自然を征服し、破壊し、支配するのではなく、自然と調和し、建設し融合していくのでなければならない。
 自然界というのは、無限な、開いた系ではない。有限な、閉じた系である。地球、それを取り巻く大気、そこに住む生命集団を含む全体が、一個の生命であり、一個の見事な調和である。
 もはや、自然をただで、いくらでも恣意のままにしてもよいという考えは、修正せざるをえない。これからは、自然を回復させるために、人間の側から高価な代償を払わなくてはなるまい。人間は、自然の安全保障にあまりにも無頓着でありすぎたのではあるまいか。
 これは、非常に大きな問題である。哲学的、思想的に、今の人類文明のあり方、考え方を、土台から変えることになってしまうだろう。そして、事実、私は、それがなされないかぎり究極的な解決はありえないと考えている。ただ、問題は、現在の、目の前に起こっている公害問題を、どのようにして解決するかということである。
 その一つの案として、大気、土地ないし国土、水などは、有限のものであり、人類の共同財産であるという考え方から、これらを消費することに、なんらかの制限を設ける必要があると思う。特に、営利を目的とする産業活動において、これらは、決してただの資源ではないというようにすることだ。
 たとえば、酸素の消費という問題について。現在、いずれの工場でも、エネルギー源である石油は、当然、金を出して買っている。しかし、その石油を燃焼するのに必要な酸素はただである。それは、無尽蔵にあるものと考えられているからである。
 すでに、何度も述べたように、酸素は決して無尽蔵の資源ではない。ということになると、酸素もまた、金を出して買うのが、当然であるといえないだろうか。そこで、どれだけの酸素消費量に対して、幾らというふうに価格を定め、各工場は、月々、金を自治体に納めるのである。それは工場だけでなく、自動車も同じである。消費するガソリンの量によって酸素の消費量もだいたいはじけるから、その量に応じて、やはり自治体に金を納めるわけである。
 不公平といわれるかもしれないが、酸素を消費し、空気を汚染していることでは、この二つが最も大きい原因をなしているのだから、まず、ここから手をつけることだ。それによって、酸素を使うのがいかに高価につくかという意識が一般化すれば、これは、実に大きい戦果となるにちがいない。
 さらに、酸素をつくりだす源の一つである樹木についても、この観点から、考え直してみよう。森林をもっている人にとって、そこの樹木を伐ることは、あくまで本人の自由であった。しかし、一本の樹を伐ることによって酸素をつくる源が減ることになるのは明らかである。したがって、伐採についてそれに見合った金を自治体がとるようにするのである。同時に、伐採したあとには、かならず、苗木を植えることも義務づけるべきであろう。
8  次に、工場などの排水、廃棄物あるいは排気ガスの問題について。これまで、わが国の企業においては、ほとんどの場合、そうした廃棄物質を、自分の責任において処理するということがなかったと聞く。考えてみると、まったくあきれた話である。
 汚い話だが、もし、一般家庭において、排泄物をまきちらしたらどうなるか。少なくとも、人間の住む家ならかならず便所がついており、それを合理的に処理する仕組みになっている。ところが、工場がその廃棄物を、たれ流しにしたり、あたりかまわずまきちらしているというのは、便所がないのと同じではあるまいか。
 個人の生活で、排泄物の処理に要する出費は、当然、家計のなかに入っているのと同じく、企業においても、廃棄物質の処理のための費用は、当たり前の経費でなくてはならない。それは社会生活を営む者の、義務なのである。
 人間の体でも、解毒作用を行う肝臓は、脳についで、高度で複雑な機能をもっていると聞く。また、排泄物を処理する腎臓も、見事な機能を有しているという。身体に、本来、そうした装置がついているように、企業も、そのような設備をもつことは当然である。その当たり前の道理を無視して、企業の利益を守るために、そのような設備を義務づけなかったのは、最大の誤りであり、そのために今日の環境汚染の深刻化を招いたのも、当然の酬いであったのである。この点では、公害問題は、いわば、社会の肝臓病、腎臓病なのである。
 これについては、企業側から、おそらく、生産コストの上昇、それに国際競争力の低下といった結果を招くという反論が出るだろう。特に、中小企業の場合は、採算がとれなくなって、倒産する恐れも、事実ある。事態が容易でないことは、私もよく知っているつもりだ。
 基本的には、経済成長一辺倒、企業利益最優先という考え方を変えることである。いわゆる“くたばれGNP!”の思考を、具体的に現実化することだ。まず可能なところから手をつけよう。比較的に資本の余力のある企業は、早急に実行するよう義務づけられねばならない。
 中小企業の場合は、たとえば密集しているところでは、共同の処理場を、金を出し合ってつくるのも一案であろう。個々でつくる場合も、公害防止のための設備投資に対しては、優先的に融資するようなシステムをつくる必要がある。民間の銀行も、その姿勢で臨んでほしいし、自治体にそのような機関を設けるのもよかろう。また、これにともなって地方公共団体の自治権を、大幅に強化する必要がある。公害問題は、中央集権的に推進するよりも、地方分権的に、住民と直結して解決を図っていくほうが、より現実的であるからだ。
 先に、私は、酸素消費代として、各企業、自動車のユーザーは、自治体に金を納めることを提案したが、その金を、こうした公害防止のための金庫にするというのは、どうだろうか。できるだけ低金利にして、弱い人々に負担にならぬよう、適切な処置がとられなければならない。
 なお、河川や海の汚染は、なにもこうした企業による工業用排水ばかりではない。都市一般住民の下水のたれ流しや汚物の投棄も、目にあまるものがある。これは地方自治体の行政上の責任である。汚水、汚物の完璧な処理機構をもたない都市や自治体は、やはり肝臓や腎臓のない生体と同じことなのだ。そうした設備の建設には、各自治体とも、最も意欲的に取り組んでいくべきである。
9  このことは、今後、都市問題として、重要な課題となってくると思われる。目下のところは、公害という問題が前面に出ているが、それはいわば病状の解明であって、これをどう治療するかということは、結局、都市問題といった形になる。人間の集住にともなって生ずるあらゆる問題が総合的に検討され、人間にとって環境とはいかなるものかという視点から、長期的な対策が立てられなければならない。
 公害問題は、究極的には、文明全体の問題であるが、少なくとも現時点では、多分に行政上の責任問題である。これまで、行政機関は、経済成長を図ることを至上の目標とし、住民の福祉も、健全な環境も、歴史的な遺産も、一切を犠牲にしてきた。特に、住民の生命の安全と、幸福を守るという政治の使命からみると、まったく無責任ともいえる態度に終始してきたのであった。これを、まず百八十度、価値転換すること、意識変革することが時代の最大の要請であると言っておきたい。
 当然、政治を監視する立場にある住民は、この公害問題に対しては、強い発言力をもつべきである。というより、民主主義社会にあっては、発言権をすでにもっているのだから、最大限に活用することである。経済第一主義で、住民の生命が脅かされても平然としているような政治家は、代表になる資格はないのだというぐらいになっても当然ではなかろうか。
 日常においても、住民は、環境の汚染、破壊を、生命への直接の危害として、激しく摘発し、追及していくべきであろう。公害問題で、最も主導権を握るべき人は、企業人でも、政府でもない。住民の連帯の意識が、政府を動かし、企業をも動かしていくのである。たとえば、水俣の住民や、田子の浦の住民の公害についての知識は、きわめて高い。そこで収集された資料は、学問的にも優れたものであり、最高水準をいくものと評価されている。ひとたび、住民が目覚めれば、どれほど大きい力を発揮していくかの証左である。住民運動、市民運動の展開、ここに公害解決の一つの重要なポイントがあると思えてならない。
 先ごろ、日本弁護士連合会の人権擁護大会で“環境権”という、新しい法律解釈の概念が提示され、注目を浴びた。人間と環境とは一体であるという考え方に立てば、これは当然のことと思える。人間という存在は、もともと環境によって立っているのだから、環境の破壊や汚染は、直ちに人間としての生存を侵害するものである。この意識を基盤に住民が立ち上がっていくならば、企業の横暴や、それと結びついた行政機関の怠慢は、かなり大幅にこれを制御できるはずである。
 たとえば、住民の代表によって“公害Gメン”をつくり、居住する土地の公害に対して絶えず鋭い監視の目を光らせていくのである。それは、住民によってつくられたものであるが、法的にも、強制捜査権のような権限をもたせる。また、広く一般住民の情報も吸収していけるようにする。科学的な分析を要するものについては、専門研究者、大学研究室などに依頼するということもあってよい。
 あるいは、住民が直接、資料を分析するようにしてもよい。簡単に調査する方法を知っていくならば、住民の意識は、かなり高まっていくことであろう。その意味で、科学者は、一般の人々に、大気や水の汚染状態を手軽に観測できる方法、手段を提供すべきである。さらに、大学研究室や専門機関を、市民に開放してみてはどうかと提言したい。
10  言うまでもなく、そうした住民においても、意識の変革は不可欠の要件である。もし、企業のおかげでこの町が経済的に潤っているのだから、われわれは、企業に対して文句を言えないのだなどという考え方があっては、Gメンの役目は務まるまい。万一、会社が出ていったり、つぶれて、町が経済的に打撃をうけるようになるとしても、生命の危険にさらされるほうが、より不幸である。たとえば、人が重病になり、生命の危機におよんだ時には、治療を最優先して、一切をそこに注ぐであろう。生命の増長を図ることが、本当の幸福であり、そこに全力、全英知を注いでいくことが正しい方向であると思う。また健康を回復するための出費を考えれば、経済的にも、そのほうが安くつくとも考えられる。企業側にしても、莫大な補償金は大変な痛手であるはずだ。ただし、これは極端な場合であって、公害をなくすことを絶対条件としながら、しかも会社がつぶれないために、特別に融資したりするといった妥協策は、なされうる余地があって当然である。
 現在、環境汚染に対する規制策として、環境基準が定められているが、これも、幾多の学者によって指摘されているように、残念ながら、かならずしも、生命の安全を保持できるものではない。学者といっても、厳しい悲観的な見方をする人や、楽観的な見方をする人があり、さまざまである。行政にたずさわる人の多くは、企業の利益を守るため、どうしても、楽観的な意見に傾きがちである。政府などから出されている環境基準というものは、だいたいそうした楽観的な説によっているようだ。
 私には、かりにも多くの住民の生命にかかわる問題が、果たしてそんな考え方で扱われてよいのかと、疑問に思われてならない。生命の安全を守るためには、最も厳格な態度で臨むのが当然である。同じ学者のなかで、悲観論者が少数派であったとしても、その人々の意見を重視し、それをよりどころとして、対策を立てるのが、住民の生命を預かる行政担当者の義務ではあるまいか。生命の尊厳は絶対的なものであり、相対的に、力関係で取り扱われてはならぬ問題だからである。法律家も、その観点に立って、強力な法の立案、法規制に着手すべきである。
 公害について、ようやく政府も真剣に取り組み始めたように見うけられるが、それは、決してポーズだけであってはならない。公害についての欺瞞は決して許されない。しかも公害の深刻な実態と考え合わせると、残念ながら政府の姿勢は、まだまだ本格的とはいえない。たとえば、それが端的に教育にあらわれている。
 小・中学生の教科書には、公害とは無関係に、経済大国日本を誇るような内容が豊富に盛りこまれている。繁栄といっても、虚像の繁栄であり、世界でも最大の公害列島になっていることなど、いささかも触れていない。日本の今後の問題を、シビアに見つめさせるような方向は、まったく示していないようである。よい面だけを誇示し、悪い面には目をふさがせるような教育は、未来を建設していく青少年に、正しい認識を与えることにならない。これが、本来の教育のあり方ではないこともまた、自明の理である。
 そのような政府の行き方にあきたらず、公害についての教育を行っているところもある。しかし、ある所へ行ってきた人の話を聞くと、そこでの教育は“公害に負けない体を鍛えよう”というほどの内容であるという。子供に、もっと基本的な、人間と自然の仕組みを教えるような方向の教育が、図られなくてはなるまい。
 このことをとおして感ずることは、現代の指導者が、未来に何を残し、何を与えるかという展望の著しい欠如である。
 今こそ、未来への明確なビジョンを、指導者は衆知を集めて定むべきである。特に、日本は、あたかも“公害実験国”みたいになってしまっている。かつて核の洗礼をうけたのも日本であれば、今、公害への最大の試練に立たされているのも日本である。日本が、今後、公害にどのように挑戦していくかは、世界的な関心事であり、国際社会での信頼も、この点にかかってきていると、私は思う。
11  さらに、これは、早急にできる問題ではないが、学問のあり方についても、大きい変革が行われなければならない。これまでの西欧の学問は、事象を既成の知識に分析し、そこにとりだされたものを、その事象の本源としてきた。その過程において、そうでないと考えられるものは、どしどし切り捨てられる。そして、本源とされるものについて、これを人工的につくりだしたり、または、人為的に強化することをめざして、種々の技術や産業が発達してきたのであった。
 ところが、生命現象の場合は、生命のあらゆる要素が複雑にからみあって一つの有機的な体系をつくり、活動を行っている。本源的でないと思われたものも、実は、それなりに不可欠の役目をもって、その生命体の維持に参画しているのである。そうした生命事象の特質を無視して、単純な要素に分解し、捨象していくということは、たいへんな誤りを犯す結果になってしまう。
 その意味で、これからの学問の方向として考えなければならないのは、総合的な把握ということではないだろうか。そして、個々の要素に分断し抽出するのでなく――もちろんその面も必要であろうが――それらの要素がどう関係しあっているか、そして全体としてどのように調和しているかという観点から、全体的に迫っていく行き方を確立することである。
 科学は、公害をいかに解決するかという問題に重大な責任をもっているし、より以上に、公害を生まない科学技術文明の建設をめざしていくことが要請されよう。さらに、自然が本来もっている浄化力、生産力を高めていくにはどうすればよいかという点にも、科学は新しい分野を開拓すべきである。と同時に、人間の生命力を豊かにしていく方向も模索すべきである。
 この人間と自然の本来的な力を調和し、総合し、高めていく、いわば“人間自然学”ともいうべき学問体系の確立を、提案したい。そのためにも、総合的把握の方法は、かならずや不可欠の問題となってくると思う。
 また、科学者は、科学の成果が技術化される場面において、それによって生ずる弊害を明らかにし、この弊害を防止するための処置が行われているかどうかを厳しく監視すべきである。そして、そのような科学者の警告発言に対して、政府、自治体の行政機関も、率直に耳を傾け、もし、これに従っていない企業があれば、強力に指導あるいは規制するといったシステムが確立されなければならない。
12  なお、公害の問題に関連して、ひとこと、所感を付け加えさせていただくと、現在のところ“公害”で最も関心の的になっているのは物理化学的なものであるが、やがて近い将来には、コンピューターなどによる、精神的な障害、束縛も、新しい“公害”を生みだしていくにちがいない。それらがおよぼす影響は、人間精神のマヒと不具化であり、肉体にかかわる“公害”よりも、はるかに深刻で恐るべきものとなろう。人間の思考や感情を自由に操る、史上かつてない独裁政治を現出してしまうかもしれない。しかも、それは、科学文明の発達という美名に隠れて、民衆からは、盛大な歓迎をうけながら、いつのまにか絶対的な権力を握っているということになるだろう。
 これを見破り、食い止めるためには、肉体的な側面だけでなく、精神的な側面からも、人間の健全なあり方とはどのようなことかを考え直し、一つの技術開発が、この人間存在に対してどういう意味をもつかを思索していかねばなるまい。そして、危険なものを感じたら、決して黙っていてはならない。
 ともあれ、こうしたあらゆる脅威から、肉体と精神の健康と安全を守るためには、われわれ一人一人が“目覚めたる人間”として、その力を合わせて戦い、人間の尊厳を確立していかなければなるまい。目前の利害や、イデオロギーや、立場の相違を超えて――。

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