Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

脱テレビ文化  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  テレビの登場によって、現代人は読書の楽しみから離れる傾向が強まっている。こういう言い方をすると、わが国が年間発行点数約四万五千点、ソ連、アメリカについで第三位(「出版科学研究所」調べ)と、世界でも有数の出版量を誇り、活字文化の繁栄を謳歌している事実を無視しているように思えるかもしれない。
 もちろん私も、わが国で月々日々に出版されているさまざまな書物が、膨大な量に達していることを決して忘れているわけではない。しかし、その大半を占める一部の週刊誌や月刊誌、あるいは興味本位の通俗的な読み物などが、いわゆる本来の読書の対象といえるかどうか、はなはだ疑問である。のみならず、最近は出版文化そのものに対するテレビ文化の侵略が著しくなってきているようだ。マンガの隆盛は、その表徴の一つであろう。
 近ごろでは、大学生や大学卒のインテリ階層の間にも、マンガ本が爆発的な売れ行きをみせているという。マンガ週刊誌も氾濫状態を呈しているようだ。また、特に週刊誌におけるグラビア写真の量的な増大は、いわば“読む週刊誌”から“見る週刊誌”に変質させているといってもいい。
 こうした現象は、映像文化による活字文化の侵蝕の新型ともみられるだろう。
 テレビにしろ、マンガにしろ、いずれも人々に直接、具体的な画像を提供するところに、そのメディアとしての共通の特質をもっているものである。目で見たものが、そのまま直接脳裏に伝えられてくるわけだ。活字によるメディアのように、読む者が一つ一つの文字の意味をくみとり、それを頭の中で映像や音声に再構築するなどという手間を必要としないのである。
2  かつて、アメリカの社会学者マクルーハンは、テレビによって現代文明の性格は根本的な変革をうけ、いわば“触覚文明”となりつつあるということを指摘した。
 触覚を感覚器官の主役とする昆虫類のような生物は、自分が触れるものに対して条件反射的に反応する。それは大脳まで経由しないで、中脳とか延髄によって処理される反応である。
 テレビ文化は、このような“触覚人間”を育てる可能性が大きいというわけだ。
 たしかに、テレビによって育てられたともいえる現代っ子は、物事の直感的な把握という面では優れた感覚をもっている。だから、そういう意味での観察は鋭いし、反応も速い。しかも、表現も感覚的で面白い。
 だが、物事を論理的に考えたり、情緒的に深く味わうということになると、どうも苦手のようである。面倒くさい論理的思考や、まわりくどい情緒などといったものは、能率とスピードを重んずる現代社会にあっては、およそ価値が薄れたものになってしまったのかもしれない。
 しかし、私はそれらの一見ムダとみえるものこそ、人間的な生き方を生みだしている要素であり、そうしたムダのなかにこそ、いわば“人間らしさ”があり、その本然的姿勢のなかに、究極としての生命の尊厳を守るクッションがあるのではないかと思う。
 情緒や思考は、外界からの刺激と、それに対する反応という直截的過程だけをみれば、単なる介在物にすぎないし、それは余計なものなのであろう。たとえば、軍隊などのように闘争をこととする世界では、思考や情緒にふけることを極端に嫌う。むしろ、それらを排除して、刺激に対する的確な反応が、いわば本能的に起こるようになるまで勘を養うのである。
 これは言いかえると、人間的な要素を、できるだけ抑えて、いわば昆虫的な機能を強化しようとする訓練、改造にほかならない。テレビ文化とは、結果的にはこのような人間改造を電波の力を借りて、きわめて大がかりに進めているものだ、といったら言いすぎであろうか。
 テレビは、今や情報化時代のヒーローである。いや、むしろテレビがあってこそ、初めて情報化時代が現出したというべきなのかもしれない。今や、文学作品もテレビドラマとなって放映されれば、たちまちベストセラーになっていく。俳優も映画よりも、テレビに出演したほうが早く有名になる傾向となってきた。
 映画界では、世界的に知られた大物俳優も、現代っ子にとっては、彼が出てくるCMのほうがなじみが深い。選挙の場合でも、テレビを通して絶えず茶の間に顔を出すタレント候補は、圧倒的な強みを示した。まさに、テレビ万能時代の到来である。
 このようなテレビ人間となった現代人にとっては、国会議員の候補といっても、その政治的な見識や能力の適否は、たいした問題ではなくなってしまう。要するに、その人物については、ブラウン管を通じて、日ごろなじみの顔であるからだ。そのタレントの、政治家としての可能性など、眼中にないようである。
 ここに知っている名前があるから書くという、この行動のなかには、ある種の条件反射的反応のメカニズムが働いているのであろう。これは、人間的なものの特質を中心にすえ、人間の幸福、人間性という視点から見たときには、きわめて悲しむべき傾向といわなければならない。
3  パスカルの有名な「人間は考える葦である」という言葉を引くまでもなく、人間の特質は“考える”ことにある。
 私は科学者ではないので、もとより詳しくは分からないが、たとえば大脳生理学の権威・時実利彦氏は、その著『人間であること』(岩波新書)の中で「人間らしさの特質は、大脳の新皮質が負っている学習、適応行動、未来に目標を設定し、価値を追求して行く創造的行為にある」(要旨)と述べている。
 そしてなかんずく、人間的特質の表徴というべき“考える”ということは「受けとめた情報に対して、反射的・紋切り型に反応する、いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決、たてた目標の実現や達成のために、過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら、新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち、思いをめぐらし(連想、想像、推理)、考え(思考、工夫)、そして決断する(判断)ということである」(同書)という。
 このような人間的な創造、思考、判断の精神活動を育てるのに、言語ないし活字文化は、きわめて重要な意味をもつものである。なぜなら、文字はその一つ一つが、音声ないし意味を表す記号である。目でこの記号をキャッチした頭脳は、それを、みずからの経験や知識と関連づけて、イメージをつくりあげる(連想、想像)。そして、この行間にある著者の意図するものを思考したり、実生活と現実社会への具体化を思索する(思考、工夫)。
 つまり、目とか頭脳とかいった器官が、活字文化を媒体として、まったく人間的な、創造的な、創造や思考といった機能を発揮する。
 人は、一見なんの変哲もない記号の組み合わせの変化によって、美しい風景を描きだしたり、目のさめるような美人と対面したり、泣いたり、笑ったりする。そうした行為をさせているのは、フルに活動している精神機能なのである。
 大脳は使えば使うほど鍛えられ、磨かれるといわれるが、読書――総じて言語文化は、この人間的なものの維持と訓練に、実に重要な意味をもっていることになる。
 特に、子供の教育にあたっては、想像力や発想能力、創造性を養うために、読書の習慣を身につけるようにしていくことが、大切となるのではないか。できれば、夕食時の子供向き番組は別としても、心掛けてテレビから離れさせ、読書に親しみをもたせたいものである。
 ただし、それは強制によってではなく、親自身が、読書に親しむという習慣を身につけることである。私はかねがね一日に二十分の読書を人に勧めてきた。一日に二十分なら十日で二百分であり、一年間たてば、たいへんな実力がつく。
 一日、三十分でも一時間でも、おのおのが生活のなかに読書するというリズムをもっては、いかがなものであろうか。まだ字の読めない子供の場合は、お父さんなり、お母さんが、アンデルセンとか、グリム、ケストナーといった作家の、薫り高い児童文学の作品を朗読して聞かせることも、書物へのあこがれと、その尊さを教えるために偉大な効果を生むにちがいない。
 いや、そればかりではない。それを通じて、親と子供との間に、深い生命の対話と交流が行われ、より以上の情愛が生まれていくことも必定であると思う。
 そして子供たちは、そうした優れた文章の連想から、自分自身の脳裏に思い描く風景や人物のほうが、ブラウン管から生まれた“提供される風景”や“人物”よりはるかに美しく、壮大であり、鮮烈であることを知るはずである。
4  現代人は視聴覚メディアに吸収され、読書を楽しむといった風潮は急速に減っている。しかし、本は読み方一つで、どんなにか豊富な人生を学ぶことができるかを知るべきである。
 私はテレビ文化そのものを、否定しているのでは毛頭ない。その相対として、活字文化が軽視されるのを悲しむのである。テレビの楽しさを享受しつつも、それに埋没してはいけない。一人一人が主体性をもち、逆にテレビ文化を支配していくとき、初めてテレビ文化を超えたと言いうるであろう。
 “家に本なきは、人に魂なきがごとし”と私も思うのである。

1
1