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日蓮大聖人・池田大作

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母をおもう  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
4  戦争が深みにはまるにつれて、やがてわが家も、強制疎開になりました。両親とも代々の江戸っ子なので田舎というものが一軒もありません。それで、親類の馬込(東京都大田区)に家を建て増しして疎開しました。ところが、疎開してまもなく、馬込にも焼夷弾が降り、猛烈な火炎に全焼してしまいました。茫然自失です。辛うじて持ち出した荷物はただ一つ、古めかしい大きな箱だけでした。翌朝、騒ぎがおさまって開けてみて、みんな驚きました。雛人形ばかり入っている大箱ではありませんか。生活の必需品をことごとく灰としてしまった今、一人の子供は呟きました。
 「こんなもの、大騒ぎして出すんではなかった」
 「よかった。よかった。このお雛さまを早く飾れる家が見つかるといいね。きっと見つかりますよ、ね」
 茫然としていた一同に向かって、こう言いきったのは母でした。なんという楽天家かと思いましたが、果たして私たちは前途に明るい春をもちました。緊迫した明日をもしれない情勢のなかで、母の楽天的性格は、一家にとって一本の筋金として通っておりました。苦労を苦労とも思わず乗り越えてきた母の知恵は、一家を背負っているという自覚と、現実との闘いから生まれたものにちがいありません。
 戦災には、楽天的であった母も、四人の子供が次々と出征し、軍国の母となった時には、口には一言も言わなかったものの、心中どんなに辛い思いをしていたかが、子の私にはよく分かります。やっと手塩にかけて育てて、少しは一家のためにもなろうとした年ごろの四人の息子です。母の胸には、悲嘆の雨が降っていたにちがいありません。それを口にしないだけに、このころからめっきり老けはじめたことが、ありありと分かりました。私も、そのころ十五、六歳になっていましたので、兄たちの分も自分が働いてつぐなおうと心に決めました。
 兄たち四人は、みな外地に征き、戦後になっても、生死不明でありました。そのうちに長兄のビルマでの戦死の報せがきました。その時の母の悲嘆にくれた顔を、私は今でもよく憶えています。おそらく母の生涯で、最も哀しい出来事であったにちがいありません。母の姿から、私はこの時、戦争というものの悲惨と残酷さを身にしみて知ったのでした。そして、世の中の善良な、なんの罪もない母親を、これほどまでに哀しめ苦しめる戦争というものは、絶対に許すべからざる悪であり、悪魔の仕業であると考えずにはおられませんでした。以来、私は、戦争には絶対反対です。これも母から無言のうちに得た信条であって、いかなる理由があったとしても、私は戦争を憎み、反対することを生涯の仕事の一つと思っています。
 このほか、母の姿から、私は知らずしらずのうちに数多くの教訓を得ました。この教訓こそ、母と子の倫理学から生まれ育ったところのものです。
 母は一切の方法論を用いませんでしたが、みずからの深い愛情から滲みでた知恵から、すべてを包みこむ確たる倫理学をもっていたように思えてなりません。さもなければ、私が、母から無意識のうちに、これほどの影響をうけることもなかったでしょう。
 母は今も健在です。母の子に対するひたむきな純な愛情は、実に多くの実を結びました。今、多くの子供たちの感謝に包まれながら、昔と変わらない生活の姿勢を守って、母は稔り多い晩年を送っております。

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