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日蓮大聖人・池田大作

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家計のやりくり  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  それはともかく、現実問題として、一向に変わりばえのない政治のなかで、一家の経済を成り立たせていくには、たいへんな苦労がいる。しかし、よほど計画をきちんと立てて、科学的に取り組まないことには、いくら苦労し知恵をしぼってみても、火の車から脱出することは不可能である。たとえ、その日暮らしの苦しい、乏しい家計であっても、細大もらさず一日一日の収支、一カ月の家計をきちんとつけていくことが基礎条件となる。
 こうして毎月、毎年の家庭経済を振り返ってみると、何がムダで、どれだけ切り詰められるか一目瞭然となろう。ある人が“統計を知らない人は文明に立ち遅れる”と言ったことを思い出す。
 デパートや商店のコマーシャリズムが氾濫している今日、巧みな宣伝文句に誘われて、たいして必要でもないものを、つい買ってしまっている場合が意外に多いようである。あるいは、隣が新型の洗濯機を買ったので、つまらない競争意識から、まだ使える旧型の洗濯機を新しいのに買い替えた等ということも多々あると聞く。
 家庭によって収入も違い、家族構成も異なり、そしてビジョンもさまざまであるように、毎月のお金の使い方もよく考えて、あくまでマイぺースでいく以外にはない。また、それが正しい。家計の切り盛りの上手、下手は、こうした主体性を貫いていけるかどうかで決まってくるといっても決して過言ではあるまい。
 また、かりに、個人経営の商店や企業を家業としている場合、特に気をつけるべきことは、商売上の収支と家計の収支とを、あくまで区別していくことだ。この立て分けが、きちんとされていないと、どうしても商売のほうも合理的な経営はできないし、家計のほうもルーズな出費が重なっていってしまう。個人経営の中小企業が苦しいという事実には、もちろん中小企業に対して冷酷な政策や銀行等の方針も大きく関係はしているが、各経営者のルーズさも一因をなしているようだ。
3  ところで、現代の商業主義が大衆の消費欲をそそっている点については、昨今はやりのクレジット方式もかなり食いこんでいる。こんなことを言うと、月賦販売業者から文句を言われるかもしれないが、月々の支出を、どの程度にまですればやっていけるかを、買う前によく考えることが大切である。クレジット方式が行き渡っているアメリカなどでは、庶民の大部分は自動車や家具の月払いで追われつづけているのが実情であるようだ。
 次に、支出のなかで何を優先すべきかということであるが、私はそれは“主食”だと考えている。単に栄養豊富というだけでなく、家族の健康管理の観点から、食費は一切に優先して確保すべきだと思う。往々にして、日本人は経済的に切り詰めなければならない場合、第一番に、そのシワ寄せを食費にもっていきがちであるが、これは大きい過りである。
 先にあげた一食平均六十一円という数値にも、この傾向は顕著に示されている。人生を生きていくのに、なんといっても最大の資産は健康な身体である。食生活が十分でなければ、思考力も鈍ってくるし、意欲も衰えてしまう。いわんや、生存競争の激しい神経をすりへらす現代社会においては、なおさらのことだ。そして身体を健康に保ち、生きいきとした活力を与えてゆく源泉が食事の充実にあることはいうまでもなかろう。
 また、八百屋の店頭に並んでいるイモやゴボウ、あるいはミカン等の果物類について、人工的に添加された漂白剤や着色剤さらにカマボコ等に使われている防腐剤、粘着剤等々、化学物質の問題がマスコミをにぎわせた。
 こんな有害添加物を平気で使う業者の道義感ももとより糾弾されなければなるまいが、責任の一端は、少しでも見栄えのよいものをと争って求めていった主婦にもあると言わざるをえないだろう。しかも、有害な化学処理の施されたもののほうが、自然のままのものより値段も高いというのである。家計が苦しいと言いながら、なぜ安い自然のままの野菜よりも高い漂白したほうを選ぶのか。その最も直接的な動機は、やはり見た目に美しいということ、手間をかけなくてすむということにあるらしい。泥のついたイモを洗うとか、見栄えのしない野菜を自分の料理の腕で、おいしく美しく仕上げるといった、みずからの手間を惜しみさえしなければ、なにも値段の高いほうに争って飛びつくはずはなかったであろう。
 こうした主婦の心掛け一つで、家計を上手にやりくりしながら、しかも家族の健康を守ることにも通じているのである。知恵を働かせ、さまざまに工夫を凝らして手間をかけることを、むしろ楽しみにしていくことも大切ではなかろうか。
4  俗に、生活の基礎条件を衣食住とするが、われわれの生活にとって、なんといっても最も欠かせないのは食である。衣は、その次にくるものだ。そうしてみれば、これは衣食住でなく食衣住とすべきだろうと思われるが、いかがなものであろうか。ともあれ、食衣住は人間として生きていくための土台であって、家計のやりくりで、まず確保しなければならない御三家ともいえる。
 最近の平均的な各家庭の支出傾向として、レジャー費や交際費のために食衣住が犠牲にされている点が指摘されている。特に住にいたっては、地価の高騰のため一般庶民がマイホームをもつことは、それこそ高嶺の花で、最初から諦めてしまっている面もある。衣のほうは科学技術の進歩によって安い化繊が大量に出回り、庶民の欲求に、ほとんど十分なまでに応えてくれるようになった。しかし、食と住の急速な値上がりは、まさに政治の責任と言わざるをえない。
 このさい、われわれは国民の食衣住を、十分に満たす社会的条件をつくることが政治の絶対的使命であることを再確認しておく必要があろう。それはそれとして、家計の運営にあたっては、食衣住の御三家を確保したうえに、初めて種々の工夫が凝らされるわけである。
 おしゃれやレジャーや交際費のために食費を節約するような家計のやりくりは上手、下手以前の問題である。つまり、食衣住を十分に確保して家族が困らないようにすることこそ家計を預かる人の基礎的な任務である。それができないとすれば、もはや家計を預かる資格はないといっても過言ではあるまい。
 生意気な言い方になってしまったが、わが国の政治のあり方と庶民の生活に対する考え方に一抹の不安を感じている者として一言したしだいである。

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