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日蓮大聖人・池田大作

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人間の美  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  人生の風雪を刻みつけた人の顔は美しいという。たとえ幾歳になろうとも、磨きぬかれた木目のように、厳しさに耐えてきた美しさは、立派な風格となって輝きを増すものである。
 一切の虚飾や化粧を取り払って、まったくの赤裸々な一個の人間として、その人を見つめたとき、初めて本当の美しさ、気高さというものが、顕現されるのであろう。
 それでは、人間にとって、その永遠の美を滾々とわきだす源泉とは、いったい何であろうか。
 『万葉集』は、古代人の人生や自然に対する感情の起伏をおおらかに謳いあげた人間の讃歌であった。そこには後の古今、新古今集のごとき技巧はみられず、つくろわない、ありのままの人間らしさが躍動している。万葉の人々の素朴な感動は、時代を超えてその美しい余韻を現代に伝えている。
 永遠の微笑をたたえる「モナ・リザ」の肖像画は、東洋的な美の影響を受けているといわれる。レオナルド・ダ・ビンチのあの一枚の絵が語りかけてくるものは、理屈や理論などとはおよそ関係がない。
 女性の神秘的ともいえる静かなほほえみに、天才画家の確かな眼は不可思議な人間生命の永遠性を、しっかりととらえているかのように思えてならない。
 モナ・リザは決して青春を乱舞する、みめ麗しき乙女ではない。しかし、ダ・ビンチは、この絵によって、生命の不変の輝きに迫ろうとする一女性の相貌を借り、人間だけがもつ、胸奥に秘められた固有の美を描きだし、生命の不変の輝きに迫ろうとしたのではあるまいか。
 私は、人間美を考えるとき、いかに時代や距離や風俗習慣は異なろうとも、変わることのない本源的美しさについての心情に行き当たるのである。
 中国の古典に出てくる美人は、だいたいほっそりと弱々しい体つきで、足が小さく、歩くのも病み上がりのように頼り無げなのが多い。しかし、これは宋代以降のことで、唐代の女性はふっくらと、よく太った健康優良児タイプが理想とされたと聞く。唐代の美人画は正倉院御物の中にもあるが、まるで栄養過多の肥満児といった風情がある。
 今日でも、ポリネシアの人々の間では、太っていればいるほど美人とされているので、娘ざかりは思うぞんぶん食べる風習があると聞いたことがある。八頭身などといって、背がスラリと高い、どちらかといえば、痩せぎみの女性が美人とされている文明社会からは想像もつかないことではなかろうか。
2  同じ日本でも、時代によってずいぶんと違うようである。遠い昔のことはよく分からないが、江戸時代の浮世絵に出てくる美人は、たいがい細面で、あごがしゃくれて目が細い。
 戦前、戦後でも大きい相違があり、戦後もてはやされているグラマー美人は、戦前は鳩胸などといって価値を認められなかったようである。
 こうしてみると、美人の条件などというものがいったいあるのかと疑わしくなってくるが、女性というものは、とかくその時代の美人の類型を求め、みずからをその型にあてはめようとする傾向が強い。ある整形美容の医者は、みずからの顔を改造しようと願う女性たちのおかげで高額所得者番付に名を連ねる昨今である。
 少しでも美しくなりたいという女性の願いは、古来宿命的なものかもしれない。それが何のためなのか、だれのためなのか、ということは本来思慮の外であるともいえる。むしろあえて言えば自分のためであり、鏡に向かっている自分の心を満足させるためなのであろうか。もしも、だれか他人のためというなら、私は表面をつくろうことに精をだすより、心の中の浄化と、感情と知性を豊かにし、研きをかけることのほうが、はるかに効果が大であると言いたい。それが恋人であるにせよ、夫であるにせよ、あるいは友だちだとしても、新たに魅力を感じているとすれば、それは表面だけの美しさによってではなく、内からにじみでる人柄のよさ、知性と感情の躍動によってだからであると思う。
 どんなに美しくとも、うわべだけの美は、たちまち飽きがきてしまうものだ。本当の美は内面から輝き出るものでなくてはならない。
 「あばたもえくぼ」とは昔から使い古された諺だが、惚れた者の心理をよくとらえた言葉だと感心する。惚れるという感情は何によって起こるかといえば、相手の人柄に引かれるからである。惚れた人間にとっては、表面上の欠点も、かえって美点として映っていくということである。
 美人で、しかも温かい心をもった女性は、きわめてまれのようである。それは、美人だと人にも言われ、自分でも思いこむことによって、どうしても気位が高くなるからなのかもしれない。気品をもつことは大事であろうが、女性らしさに欠けることは、本人にとっても、マイナスであろう。
3  ある人の言葉に「女性の美しさは、年をとるほど光り輝いてくるものだ」というのがあった。深い含蓄のある言葉である。ふつう、美人ということは、若さと切っても切れない関係にあるとみられており、どんな女性も年をとると美人とは考えられないのが常識である。しかし、女性の美しさとは、十代には十代の美しさ、三十代には三十代の美しさ、五十代には五十代の美しさがあるのが当然で、五十代の女性に二十代の美しさを要求するから年をとると醜くなるように思われる。それぞれの年代に応じて、それぞれの美しさがあるとすれば、年をとるにしたがって内奥から輝きでる美しさを発揮する人こそ、本当の美人というものであろう。そうした自分なりの美しさを知り、それを存分に強調していくことが女性としての身嗜みのポイントではなかろうか。
 仏法では「色心連持」と説く。色とは肉体であり、心とは人間個々の内面である。この二つが、二にしてかつ一であり、つまるところ美しさの追求は、まず自分を知りぬくことにあるといっても過言ではあるまい。
 今日、女性がマスコミの操る商業宣伝におどらされて「今年の秋のパリモードはこれだ」となると、皆が皆、同じようにパンタロンをはき、サイケな色調の衣装を身に着けなければ、美人の仲間入りができないかのように思うのは、考え違いもはなはだしいということになる。
 極端に言えば、モードは女性の心理を利用している企業のコマーシャルにすぎないのではないか。美は、そんなところから求められるものでは、決してないし、金で買えるものでもない。自分にとってさまざまなモードがどのようにマッチするか、つまり、そうしたモードをどう自分が使いこなしていくかによって生まれるものではなかろうか。
 現代は個性美の時代である、とよく言われるようだ。しかし、実際上、美というものが、今日ほど型にはめられ、画一化されようとした時代もなかろう。それは多分に、大量生産技術の優越性によっている。次から次へと発表される個性的なモードを追って、若い女性はみずからの個性を失いつつある。このパラドックスの悪循環を断つ方法は、しょせん、借りものの個性美でなく、自分自身の本物の個性美を発見しなおすことにあるのではなかろうか。
4  私は、かなりの紙数を費やして女性美を語ってしまった。もちろん、男性の美についても共通であるからだ。一つの目標、目的に向かってバイタリティーに富み、全魂を打ちこんでいく姿は美であろう。
 その反対に、時流に流され右顧左眄する小才の利いた人間ほど醜いものはない。美しくありたいと願うならば、自己の信念に生き、理想に生きることだ、と言いたい。
 人間の立ち居振る舞いのすべてに美は秘められている。若者には躍動の美がある。はちきれそうな健康もまた美であろう。たとえてみれば若人は春の美であり、老人には秋の渋さ、枯淡の味わいがあろう。つまるところ、たゆみなき人間の営みはすべて美であり、怠惰は、醜と言えるであろう。仏法には「自体顕照」という言葉があるが、生命の本然の力を遺憾なく発揮した姿にこそ、時代を超え、年齢を超えた真の美しさがあるのだと思う。

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