Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間として生きる  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  二枚貝の体内に生じた、美しい珠。――私たちはそれを真珠と呼び、装飾品に使用しております。ふつう、真珠は、母貝の中に真珠のもとになる核が入れられ、その周りに真珠層が形成されていくといわれます。
 女性が妻であり、母である前に、人間であれと叫ばれるのも、その核があってこそ、妻として母としての形成がなされるからなのでありましょう。
 本当の“よき妻”であること、また“よき母”であることは、人間としての尊さを離れてあるものではない。特に、現今の家族制度にあっては、人間性を度外視して、よき嫁を求めるという行き方は、とうの昔に捨て去られております。男性とて、それを求めはしないものです。
 よき妻とは、夫にとって、よきパートナーでなくてはならないのではないでしょうか。夫と妻との相互の「人格」が美しい和音を奏でていくのが、家庭の理想というものでありましょう。
 母である場合も同じであります。母親は、子供にとって、人間としての先輩であり、手本であり、鏡であるということができます。子供は、母親の姿を通して「人間としてのあり方」を学び取っていくものです。
 人間であることを忘れ、妻なり、母親としてのみ生きようとする人生は、やがて惰性におちいり、家庭のなかに亀裂を生じていくにちがいありません。
 少し厳しい話になりますが、人生において、いつまでも妻であり、母であることはできません。子供が成長し、独立すれば、一応は母親の役目は終えたことになります。また、夫に先立たれる日もいつかはあります。いやな話ではありますが、その冷厳な現実に目を閉ざし、現在の幸福のみを追い求めても、それは甘い夢にすぎないと思います。人生の最終のコースにあっては「人間」が残るだけです。してみれば、人生の有終の美を飾るものは、人間としての幸福であり、それが実像であるといえましょう。
2  それでは、人間として生きるということは、どういうことなのでしょうか。私は難しい哲学論などを話すつもりはさらさらありません。しかつめらしく抽象的な論議をしたところで、かえって人生の真実からは遠ざかる一方でありましょう。
 というのは、妻として、母親として生きるのとまったく違ったところに、人間として生きる道があるというのではないからです。さらに言えば、兄弟とか、親戚であるとか、隣人であるとか、広く言えば社会といったものと無関係に「人間として生きる」ということがあるのではないと、私は思います。それらの根底を貫くものとして「人間」があるということです。
 あまりにも平凡な言葉ですが、思いやりとか、誠実とか、折り目の正しさといった、身近な人生の姿勢において、成長していくこと、それが「人間として生きる」ということなのではないでしょうか。簡単なことのようですが、実は、この簡単なことが、意外と難しいのです。
 人間は、だれでも、いつのまにか「生活への馴れ」といったものが忍び寄っていることに気づかぬ場合が多いものです。また、気づいても、それを打ち破る力を出し惜しみするのです。そうした自然の流れに身をゆだねていたほうが、気楽だからでしょう。私たちは、忙しさのなかにあって、そんなことを考えるゆとりすらないのかもしれません。
 日常の生活というものは、一見、なんでもないようですが、ひとたびその連鎖を断ち切ろうとするときには、もはやどうすることもできないような頑強さをもっております。日々の生活態度は、いつのまにか、それ自体で動いていくサイクルをつくってしまうからなのでしょうか。
 したがって、私は、ぜひとも「人間として生きる」という姿勢――つねに、成長していこうという姿勢を、日常のなかに築いていってほしいのです。
 ある意味では、『人間』とは、反省する動物とも言われるように、生きることの意味を問う動物であると表現することもできます。一方では、日常生活のサイクルに身をゆだねながらも、他方では、そこに空しさを感じ、より自分を生かす道を考えるものです。
 向上する意欲は、この「反省」という素朴な態度から、生まれるのではないでしょうか。反省は、決して後悔や懐古趣味ではありません。過去を過去として振り返るのではなく、明日を開く自分自身を、見つめることです。
3  江戸時代中期の碩学である佐藤一斎の言葉に「春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら慎む」という有名な一句があります。自分に対する厳しさを教えた名言であり、私も、この文句が好きです。多少、道徳めいてはいますが、現代の慌しさのなかに、盲点となっているものを鋭く突いているように思えてなりません。
 自分を見つめるということは、本当に、こわいことかもしれません。むしろ、自分の心には帷をおろして、なるべく自分でも見ないようにするほうが安心でもありましょう。その間に、いつか若々しかった心も錆びついてしまい、醜いものとなっているものです。
 たとえ、どんなに忙しくとも、勇気のいることであっても、自身を反省し、磨いていく心のゆとりだけは、もちたいものです。
 その反省は、内に沈んでいくものではなく、家庭を基盤として、社会に目を開いていく方向であるべきでしょう。
 いうなれば、家庭も、一つの共同社会です。互いに、尊い存在として信頼しあう関係を深めていくように、舵をとっていただきたいのです。それ自体、すでに閉じた家庭ではなく、開かれた家庭といえるでしょう。
 アメリカで、ウーマン・リブの運動が高まりましたが、それは単に女性としての権利の要求にとどまらず、人間として生きようとする切実さがあるように、私には思えます。意外と考える人もいるかもしれませんが、アメリカの女性の地位は決して高くはないようです。日本では、たいてい、財布のヒモは、主婦の手にまかされていますが、アメリカでは、男性がガッチリ握っているのが実情だといいます。アメリカにおける女性の地位は、極言するならば、日本の明治時代に相当すると言う人までおります。
 日本には、封建性に対する強い反発があり、敗戦による古い価値観の崩壊が、ともかく女性の地位に大きな変革をもたらしました。もちろん、これは、概括してそう言えることで、個々の家庭は、色とりどりであるにちがいありません。
 ただ、少なくとも、これだけは言えそうです。それは、本当のウーマン・リブは、女性だからという甘えた気持ちでなく、女性みずから人間としての強い自覚に立ち、人間として生きることの尊さを、各家庭のなかに実現していく以外にない、ということです。家庭という真珠貝の核は、ほかならぬ主婦の「人間」であり、そこに美しい和楽の珠が形成されていくと思います。
 大げさなことを言うようですが、家庭という共同社会には、人類という共同社会の縮図さえあるのです。その核となるものが「人間として生きる」という素朴な命題なのでしょう。

1
1