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日蓮大聖人・池田大作

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美に生きる  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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1  美の国 日本――
 先ごろ来日した、クーデンホーフ・カレルギー伯と懇談する機会がありました。伯は、早くからパン・ヨーロッパ主義を提唱し、ヨーロッパ共同体の、生みの親と言われる人です。お母さんが日本人であり、日本が、私の故郷であると言っていました。その折、伯が、日本について最も強調していたのは、美を大切にするということでした。
 たしかに日本の美の伝統は、東洋的な深い思想の裏づけと、民族独特の勤勉さと、変化に富む自然とが、一つのハーモニーをかもし、このような“美の国”をつくりあげてきたのかもしれません。
 しかし、古い家にあった伝統的生活様式、そこに流れていた“美”も、近年になって急速に、失われつつあります。家族の構成も、小単位となり、多くの人々が、アパートや団地に住むようになりました。豊かな美しい自然も、公害などによって、無残に侵されています。人間の心の豊かさや、繊細な感覚も、近代化の騒々しさのなかに、顧みられなくなっていることも、残念ながら事実のようです。
 一切が合理化され、心のゆとりもないなかで“美”のセンスなどと言っていると、時代に取り残されるかもしれません。また、画一化された、狭苦しいアパートに閉じこめられ、悠長な伝統美などは生かしようもないと言われる方もあるでしょう。
 しかし、時代に相応した“美のセンス”というものは、結局、日々の生活のなかで、創意工夫していくところから生まれてくるのではないでしょうか。
 美が、人間にとって、大切な価値であることは疑いありません。どんなに狭い家でも、ちょっとした工夫があるか、ないかで、美しくも醜くもなります。それは、見栄をはれというのではありません。わずかな心遣いが、その家にふさわしい美しさをたたえていくと言いたいのです。
2  人間の美しさとて、同じことです。情報化社会のおかげで、女性の服装や、化粧法、髪型などの流行の変化は、実に、めまぐるしいばかりです。
 流行の最先端が、かならずしも美しいとはかぎりません。流行の本場とされている、フランスの婦人の服装は、きわめて地味だということです。しかし、洗練されたシックな美しさがあり、フランスの婦人は、美に対して、いくつになっても、神経をつかい、年齢や時に応じた美しさを、実に巧みに表現するそうです。もちろん、これは、一部の人々の例かもしれません。しかし、ともあれ、自分に合った美しさを出していくのが、本当のおしゃれのポイントなのだということは、確かであると私は思います。
 美しさとは、決して一定のパターンがあるというものではないと思います。とってつけた、仮面の美しさは、もはや美ではなく、醜である場合があるでしょう。その人が、もっている本来のものに、磨きをかけ、輝かしていく――ここに、その人らしい“美しさ”が洗練されて、にじみでてくるのではないでしょうか。
 家庭婦人のなかには、結婚当初は、初々しい美しさをもちながら、時がたつにつれ、所帯ずれし、急速に色あせていく人がいるようです。そこには、自分はもう美しさとは関係がないといった、なかば諦めの気持ちが働いているのかもしれません。これでは、女性として負けです。
 二十代には二十代の、三十代には三十代の、また、四十代、五十代と、それぞれの美しさがあるのではないでしょうか。“美しさ”とは、女性に与えられた価値です。それを放棄することは、大切な宝を、捨てるようなものだと思います。
 私には、不釣り合いな、とってつけた美も、所帯ずれした、やつれた美も、共通するものがあるように思えてならないのです。それは、両者とも、一方は見栄、虚栄のために、他方は諦めのために、自分を見いだす目を、濁らされてしまっているということです。
 女性には、本来、繊細で豊かな、美に対する知恵といったものが、そなわっているのではないでしょうか。その知恵を歪めたり、失ったりしないためには、まず澄んだ目で、自分を見直すことが大切だと考えます。
3  例を家具にとっては恐縮ですが、日本古来の家具には、その材質が内に秘めた美しさを生かし、磨きをかけたものが多い。名匠の目は、一つ一つの素材を、あたかも生命あるもののごとく見つめ、その秘めたる美を、見事に活かしてきたのでありましょう。それは木の生命、石の生命、鉄の生命が、おさまるべきところに、立派におさまって、本来、もっている美を存分に主張しているようです。日本人の知恵は、そうしたところに、美を発見してきたのです。
 本当の美とは、決して表面だけのものではないと思います。石にみられる、大自然の生命の鼓動、木目にあらわれた風雪の歴史――万物の生命感が、限りない美の泉となっているように感じられてなりません。
 女性の場合も、愛情とか、優しさとか、人生に対する、前向きの姿勢とか、その人柄のもつ折り目の正しさといったものが、奥ゆかしい美を創造していくのでしょう。
 女性が着物を着ている時、見る人はどこに一番目をつけるかというと、足袋であるということを聞きました。豪華な着物であっても、皺の寄った足袋では、その人の感覚が疑われるのだそうです。着こなしや、そうしたちょっとしたところに、目をつけるのは、日本の伝統的な美意識が、折り目の正しさといったものに、重きをおいているからなのでしょう。
 なにも、上流の貴婦人のようになれというのではありません。平凡な生活のなかにも、美をはぐくんでいく、きめの細かさは、ぜひ身につけてほしいという願いからです。一人の男性の狭い目であるかもしれません。ただ、美しさというものは――それを創造するのも、破壊するのも、その人の心にあると言いたいのです。
 文明というものが、人間から、しだいに美を奪いつつある昨今です。人間の目が、スモッグの空のように、曇っている証拠でありましょう。
 ロダンは「美は到るところにあります。美がわれわれに背くのではなくて、われわれの眼が美を認めそこなうのです」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波文庫)と述べていますが、味わうべき言葉だと、私は思います。
 闇鏡も磨けば明鏡となるように、わが心の鏡も、洗練していくにつれて、一切の美しさを映しだしていくにちがいありません。美とは、人の心と心をつなぐものです。地球を、本当の美しいオアシスにしていくのも“美の国”日本の役目なのかもしれません。

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