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日蓮大聖人・池田大作

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愛に生きる  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  ここ数年、「人間性の喪失」という嘆きが、ことごとに言われつづけてきた。しかし、これは実は裏をかえせば、人間としての「生きがい」を暗に求めていたのである。果たして、最近の人生問題に「生きがい論」がやかましく登場してきた。人間性の喪失とは、つまり現代の実生活における生きがいの喪失であったわけである。
 生きがいの喪失は、人間の結婚生活にも鋭く露呈しているようである。何をもって、現代の妻の生きがいとするか。――それを夫婦生活における愛情の問題に観念化して考えやすいが、生活である以上、経済的なまた社会的な要因も絡んでくるので、問題はいたずらに紛糾しているのが実情である。
 愛情を失った夫婦生活にあって「子はかすがい」として、かろうじて夫婦の体裁を保っている場合もあるし、また結婚後いつか――愛情を失ったという場合もあるが、いずれにしても生きがいを失った夫婦生活であることには変わりはない。
 最近は、女性が独り立ちしても、なんとか生きていけるようになったこともあって、愛のない、苦痛の生活をつづけるよりは、いさぎよく離婚してしまう傾向が強くなってきた。統計によると、近年、増加の一途をたどっている離婚のなかでも、妻のほうが言いだして別れるケースが多くなっているという。
 ある皮肉な友人は――弱き者、汝の名は男なり、と苦笑していたが、私は、正直なところ、これまで長いこと、女性が忍耐と屈従の暗い人生を強いられたことを思えば、このほうが、よほど明るくて健康的だという感じがする。おそらく、日本民族は、もともと女性上位の血統であったのかもしれない。それが、男性の一方的なわがままを許すようになったのは、戦国時代の武力優位の風潮と、強い女性に苦汁を飲まされつづけ、そのため女性を抑圧することに全力を注がなければならなかった中国の思考法が絶対化されたからにちがいない。
 ともあれ、こうした離婚の増加が、夫婦における愛の不毛を物語ることは無視できない。――最初から愛情がなく、なんとかなるであろうという気持ちで結婚した例もあろうが、現代の一般的な風潮からみれば、そういうケースは、まずまれではあるまいか。
 とすると、初めは愛し合っていたのが、いつしか、その愛情もさめ、やがて破綻におちいったという場合が、おそらく大半を占めていることになる。私は、そうした夫婦の間に起こる、愛の喪失は、結局、愛とは何なのか、愛に生きるとは、どういうことなのかを、深く考えてみないことによるのではないかと思う。
 では、愛とは何かというに、私は、少なくとも二つのタイプがあると考える。一つは、エゴイスティックな愛で、愛するがゆえに、どこまでも、相手の犠牲と服従を求めるものである。もう一つは、これと正反対に、みずからを犠牲にし、相手に尽くしていこうとする愛である。
 現代の夫婦の愛というものを、この視点から見直してみると、破局を招いた原因が、かなり鮮明に浮かびあがってくるように思われる。つまり、愛をエゴイスティックにとらえ、それを貫こうとするために、互いにぶつかりあい、ついには意思の疎通さえ欠いて、離婚ということになるのではないかということだ。
2  二人が、家庭という、きわめて現実的な、共通の生活の基盤に立たない間は――つまり、単なる恋人同士である段階では、わがままを言っても、それほど衝突することはないであろう。しかし、夫婦となると、一方のエゴイズムは、かならず他方の犠牲をともなわずには成り立たない。したがって、夫婦間の愛情は、おのずと、みずからを犠牲にしてでも、相手に尽くしていくものとならざるをえない。特に、妻にとっては、夫が職場にあって、存分に働けるように、これを支えることが役目である。その意味では、妻の役割は、いかにも損のようにみえるが、夫は夫で、職場では、それ以上に自己を抑え、屈従を余儀なくされていることも理解しなければならないと思う。
 恋人の場合は、愛というものをきわめて純化された形でとらえるのに対し、夫婦の、このように現実の生活が厳しくからんだ愛は、ともすれば、不純なもののようにみられやすい。だが、それは浅い考え方だと、私は思う。深い愛情で結ばれた夫婦にあっては、家庭生活という現実の一切が、二人の愛の絆を強め、さらに深めていく、複合的な糸となっているといえまいか。
 また、自分を何かのために捧げるということは、現代の若い人たちには、まるで封建的な生き方のように思われるかもしれない。しかし、これも、民主主義、近代主義ということを、権利の一方的な主張とのみとらえる、誤った考え方だと思う。人間が社会生活を営んでいくためには、なんらかの自制と、自己犠牲は必然的に要求されていくものである。権利と義務とが、表裏一体になっているのは、このためにほかならない。
 ただ、ここでいう自己犠牲なり献身的な愛が、いわゆる封建的な女性の抑圧と異なるのは、みずからの主体的な意思が――そのことに関して発言権をもっているかどうかという点にある。封建制度が、女性にとって、かくも暗く、陰湿なものとされたゆえんは、そこに女性の主体的意思が、まったく認められなかったからではないだろうか。
 私が、現代の生きがいとして、献身的な愛をあげるのは、そのような、制度的あるいは周囲の圧力によって押しつけられた自己犠牲をいうのでは決してない。それはもはや犠牲ではない。むしろ自己蘇生ともいうべきであろう。生きがいとは、自分が自分の理性で、そこに理想を見いだし、自分の主体的な意思で、自己の生命を燃焼させきっていけることである。それは、あくまでも主体的なものであって、主体性が失われれば、もはや、そこには生きがいはありえないであろう。
 生命は、つねに完全燃焼を求めてやまない性向をもっている。問題は、いかなる理想、いかなる対象のために、燃焼するかである。
 その燃焼させるに足りうる理想を見いだすことができず、精神的にも肉体的にも、不完全燃焼を強いられつづけると、変則的な形で、突破口を求めようとする。ヒステリーはその極端な例であろうし、いわゆる教育ママの子への盲愛も、その一つであろう。
 夫のため、子供のために、近隣のために、さらに、自己の主義の道に生きゆく妻は、女性として、人間として、最も幸福であり、はた目に見るだけでも、清々しい、一服の清涼剤である。

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