Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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信教の自由について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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3  外国からの、新しい思想や宗教の移入に関して、いわば、先駆者となってきたインテリジェントも、その多くが、“紹介者”ではあるが、みずからは、その思想、哲学の信奉者ではない。表現手段に関する、自由権の擁護が、より切実であったのも、あるいは、こうした“紹介者”としての権利に絡まる問題であったから、とも考えられる。
 信教の自由の貴重さは自身がなんらかの信教、思想をもち、他の信教、思想と結託した権力の弾圧をうけたときに、初めて身にしみて分かるのである。これが、単なる言論や、表現手段に関する自由権の抑圧であれば、それをさしひかえれば事足りよう。だが、信教や、思想の問題は、その人の精神の心髄の問題であって、かんたんにひっこめられるものではない。
 信教、思想についての戦いは、その全人格、ときには全生命をかけての戦いとならざるをえない。卑劣な妥協は許されないのである。
 そこに、信教の自由を守る戦いの、執拗さと同時に、崇高さがある。
 ――人間を、真に人間たらしめるものは、まさにこの思想性であり宗教性ではあるまいか。肉体的な力ならば、人間より優れた能力をもつ動物は数しれず存在する。いわゆる、頭脳の優秀性についても、ある面ではコンピューターの出現が、やがて生きた人間をはるかに凌駕することが明らかであろう。
 人間の特質を知恵にあるとして「ホモ・サピエンス」と名づけたのは生物学者リンネであったが、それも、もはや明確なる定義とはいえなくなりそうだ。いかなる動物も、いかなるコンピューターも、絶対に真似のできないことこそ、思想をもち宗教的精神に生きることであろうと、私は確信する。
 ゆえに、信教の問題は、どこまでも精神的次元の問題であって、ここに政治権力が介入し、強制したり弾圧したりすることは、絶対に許されるべきではない。あくまでも自由な状態のなかで、思想、信仰自体の問題として純粋に、哲学的、思想的に論争が行われたときに、正しく浅深、高低が決定されていくはずである。
 もし、政治権力が干渉し、不当な擁護を加えていくようになったときは、おそらく、信仰、思想自体の腐敗、堕落は免れないにちがいない。過去の人類の経験も、この原理を冷厳に物語っているし、道理からいっても、まず例外はありえないであろう。
 この意味から、私は、いついかなる時代になろうとも、信教の自由は厳正に守られるべきであると考えている。

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