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日蓮大聖人・池田大作

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信教の自由について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  イスラム教についてみると、これは、“剣かコーランか”を合言葉に、苛烈な布教戦争が繰り広げられたように伝えられている。しかしよく調べると、実際には、想像以上に寛容であったらしい。特に、ユダヤ教とキリスト教に対しては、兄弟のような宗教として、住民が信仰するのを許したという。その他の宗教についても、きちんと入貢してくるものには、かならずしも苛酷な手段をとったわけではないといわれている。
 近世ヨーロッパで、信教の自由があれほど重い意味をもったのには、やはり、なんといっても絶対的な支配権をもっていたキリスト教の、教権主義を無視するわけにはいかない。――加えられてきた圧力が、強かっただけに、それをはねのける力も強かったわけだ。
 こうした、きわめてヨーロッパ的な特殊事情をもつ“信教の自由”の原理を、まったく条件の異なるわが国のような社会に、そのままあてはめることは難しい。それにもかかわらず、信仰の自由が、近代生活の必須条件である、さまざまの自由権の中核をなすものであることは、十分に認識されなければならないと思う。
 周知のように、自由権といわれるものには、言論の自由、出版の自由、表現の自由、集会の自由、思想の自由などがある。もちろん、このほかにも、居住、移動、職業等の自由もあるが、ここでは関係がないのでふれない。
 現代のわが国では、言論や表現の自由は重視されるが、思想や信教の自由については、とかく特殊な宗教関係者だけの問題であるかのごとくみられがちである。よく考えてみると、これほど奇妙なことはない。
 なぜなら、言論の自由といい表現の自由といいあるいは集会の自由といっても、欧米の本来の“法”の発想法からいえば、――思想、信教の自由に由来するものだからである。言いかえると、これらは思想、信教を表にあらわす手段に関する自由権であって、本体は、そのもてる思想、信教なのである。
 したがって、極論すれば、いかに言論や表現の自由が叫ばれても、それを使っていく思想、信教の自由が根づいていなければ、幻の論理に終わってしまうおそれすらある。このゆえにこそ、わが国の文化は、あらゆる哲学や思想を受け入れながら、人間精神の骨髄にまで浸透しないままで、きわめて無思想、無宗教的な発展を重ねてきたのであろう。
3  外国からの、新しい思想や宗教の移入に関して、いわば、先駆者となってきたインテリジェントも、その多くが、“紹介者”ではあるが、みずからは、その思想、哲学の信奉者ではない。表現手段に関する、自由権の擁護が、より切実であったのも、あるいは、こうした“紹介者”としての権利に絡まる問題であったから、とも考えられる。
 信教の自由の貴重さは自身がなんらかの信教、思想をもち、他の信教、思想と結託した権力の弾圧をうけたときに、初めて身にしみて分かるのである。これが、単なる言論や、表現手段に関する自由権の抑圧であれば、それをさしひかえれば事足りよう。だが、信教や、思想の問題は、その人の精神の心髄の問題であって、かんたんにひっこめられるものではない。
 信教、思想についての戦いは、その全人格、ときには全生命をかけての戦いとならざるをえない。卑劣な妥協は許されないのである。
 そこに、信教の自由を守る戦いの、執拗さと同時に、崇高さがある。
 ――人間を、真に人間たらしめるものは、まさにこの思想性であり宗教性ではあるまいか。肉体的な力ならば、人間より優れた能力をもつ動物は数しれず存在する。いわゆる、頭脳の優秀性についても、ある面ではコンピューターの出現が、やがて生きた人間をはるかに凌駕することが明らかであろう。
 人間の特質を知恵にあるとして「ホモ・サピエンス」と名づけたのは生物学者リンネであったが、それも、もはや明確なる定義とはいえなくなりそうだ。いかなる動物も、いかなるコンピューターも、絶対に真似のできないことこそ、思想をもち宗教的精神に生きることであろうと、私は確信する。
 ゆえに、信教の問題は、どこまでも精神的次元の問題であって、ここに政治権力が介入し、強制したり弾圧したりすることは、絶対に許されるべきではない。あくまでも自由な状態のなかで、思想、信仰自体の問題として純粋に、哲学的、思想的に論争が行われたときに、正しく浅深、高低が決定されていくはずである。
 もし、政治権力が干渉し、不当な擁護を加えていくようになったときは、おそらく、信仰、思想自体の腐敗、堕落は免れないにちがいない。過去の人類の経験も、この原理を冷厳に物語っているし、道理からいっても、まず例外はありえないであろう。
 この意味から、私は、いついかなる時代になろうとも、信教の自由は厳正に守られるべきであると考えている。

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