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日蓮大聖人・池田大作

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戦争と文明  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  戦争は、なによりも、国家と強く結びついてきた。
 ある人の説によると、漢字の“國”という字は、国境をあらわす囗と、人をあらわす口と、土地を示す一と、そして武器を示す戈から成っている、という。──したがって「武器をもたぬ國はありえないのだ」と。
 また、ある人は、古来、武力の弱い国は、強い国にほろぼされたとし、はてはダーウィンの進化論まで動員して、戦争は“国”というものが、進化するための“自然淘汰”であるといっている。
 しかし、現代における戦争の問題は、より以上に“文明”との関連において、考察されなければならないのではないかと思う。なかんずく、現代科学技術文明が、いかにして戦争を生みだしているか、そして戦争は、文明に対して、いかなる意味をもつかということである。
 日本が、戦後めざましい復興の足がかりをつかんだのは、周知のように朝鮮戦争による特需ブームであった。今日、アメリカが、その大企業の繁栄を維持できるのも、膨大な軍事体制があればこそであろう。それは、世界各地の危険地帯に武器援助をしたり、代理戦争を遂行していることに、その一端がうかがわれる。
 ユネスコ(国連教育科学文化機構)の報告によると、一九六七年の全世界の軍事支出は、千八百二十億ドルであったという。この金額は、全世界の総生産の七パーセントにあたり、中南米、南アジア、中東地方の十億人の人々の年間所得に等しいと計算されている。
 現代世界で、軍事産業が占めている比重がいかに大きいか、察するに余りあるものがある。軍人として軍事産業の労働者として生計を立てている人々の、数も膨大なものであろう。世界のいずれの国も、国内産業を構成する既存の体制によって軍備を縮小することは、きわめて困難な状態にある。
 科学技術の面でも、軍事的要請が、その発達の大きい推進力となっている。比較的、政府権力の影響の弱い大学の研究室に比べて、近年は、巨大企業の研究部門や、専門研究所が、技術開発の花形となってきた。それは大企業が、軍事体制と密接に結びついており、軍隊すなわち、――政府から、莫大な利益を受けているからである。
 理論的側面は別として、実用的な技術開発は、今日では、一大学の研究室の、とうてい手に負えない規模になってしまった。しかも一つの、技術開発をすすめるにも、科学のあらゆる部門のエキスパートの協力なくしてはできない。
 とかく、大学の研究室は、専門別に孤立する傾向にあると聞く。有機的な結合は、企業のような目的集団でなくては、困難であるという面もあろう。
 ともあれ、現代文明は、科学技術という観点からいっても、また経済的視点からいっても、産軍協同体制を強力な基盤とし、その上に築かれた“未曾有の繁栄”なのである。――科学技術のめざましい発達と驚くべき物質的豊かさ――この二つこそ、現代文明を最も端的に彩る特色といえる。
 科学技術の発達も、物質文明への偏向も、ともに、人間性を疎外し、悲しむべき結果をもたらしている。しかし、人間性を否定し疎外する現代文明の性向は、こうした結果の問題だけにとどまらず、源からすでに歪み、汚れていたといわねばなるまい。戦争と現代文明とのかかわりあいを考える場合、これは、絶対に見逃してはならぬ点だと考える。
2  現代文明は、その大きな部分を戦争に負っている。戦争もまた、そうした現代文明に負っている。この両者の“馴れあい”は、きわめて根深い。しかし、その半面、戦争の強大な破壊力は、文明にとって最大の脅威であることも事実である。
 言いかえると、近代戦争は、現代文明の優れた科学技術と経済力、物質的豊かさとに支えられて発達してきた。ところがその戦争とは、結局、文明を破壊するものでしかない。しかも、世界が有機的結合を強めて、科学技術と経済との国際化がすすんでいる現在、たとえ外国だからといって、その破壊のはね返りは、かならずわが身におよぶことを避けられないであろう。
 こうして、現代世界は、産業と軍隊、内政と外交、繁栄と破滅との、さまざまの要素が絡みあうなかで、辛うじてバランスを保っているようなものである。これが、現代の平和といわれるものの真実の姿のようだ。
 真の、恒久的な平和を樹立するということは、文明が、そのなかにもっている戦争への指向性を取りのぞくことであろう。これは、だれでも考えることだが、現実的にそれが何を意味するかとなると、事は単純ではない。核エネルギーの開発をもたらした原子物理学を、人間の頭脳から追いだせるなどとは、だれでも考えられまい。知識があるかぎり、潜在的な脅威は当然、残存していることになろう。しかも、それは平和的にさえ使えば、どれほど偉大な幸福増進になるかもしれないのだ。
 答えは、一つである。戦争への傾向、人間の心の中にあるそうした性向――それ自体を改善する道を探究することである。戦争を起こすのも人間の心なら、戦争を起こすまいとするのも人間の心である。戦争を起こすか起こさないかの決定権は、軍事力の蓄積そのものでもなければ、社会体制自体にあるのでもない。せんずるところは、人間の心である。この人間の心の中に、いかにして安全保障の自動スイッチを設置するか、である。
 われわれは、日常生活においては、どのような事態になっても落ちついて冷静に行動できる人、崇高な精神を貫ける人を、優れた人格者と呼ぶ。ところが、ひとたび国際政治の場になると、愛国心だの正義感だのがもちだされ、感情の昂揚が叫ばれていく。その場合、愛国心や正義感は、我田引水式に歪曲され、自国の利益や為政者のメンツを立てるために利用されてしまっていることは言うまでもない。
 日常生活で“自制心”と冷静さが大事であるように、国際的な視野の問題でも、より以上に冷静に互いの立場を尊重しながら行動することが大切であるはずだ。文明度の高低は、決して物質的な豊かさや武力の強弱、生産量の多少で定められるものではない。人間自体の、成長の度合いが究極の基準であり、それは優れて精神的な問題であると、私は考える。
 私は、戦争と文明の、密接不可分なこの関係をみるにつけ、現代人はなによりもまず、――文明の高低とは、いったいどういう内容を目安にすべきなのかと、根本的に考え直す必要があるのではないかと思う。戦争は、物質的な力の所産であっても、精神的な力の反映ではない。むしろ、精神的な“弱さ”の必然的な反映なのであるといえまいか。そして、真の文明の高さは、物質的な力が、いかに強大であるか、――ではなく、精神的な“強さ”をもって計測されなければならないだろう。
3  人の心を変えることはたしかに容易ではない。根本的な変革には、さらに深い哲理とその実践の浸透が必要であろう。ただ、その一部分にすぎないかもしれないが、現実的な問題として、文明の尺度についての考え方、価値基準の転換が急務であることを、私は訴えておきたいのである。
 しかも、それはわれわれの身近な生活では、ごく当たり前のこととして常識化し慣習化していることである。腕白な子供たちの世界ではともかく、普通の社会では力が強いというだけで尊敬されるということはない。“力”がまかり通っている国際社会の不自然さは、この日常的な感覚を延長していったとき、かならず、だれにも、矛盾として実感されるにちがいない。
 社会的、政治的、国際的な不合理、矛盾というものも、人々の実感からくる、改善の機運の普及と盛りあがりによって、初めて根本的に改められていくのであろうと思う。
 人々の実感から遊離した改革は、いかに優れたものでも、早晩、崩れて元へ戻ってしまう。当たり前のことを、当たり前に語っていくところにこそ“当たり前でないこと”つまり不合理、矛盾を改める、最も強い衝撃を呼び起こしていけるのではあるまいか。

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