Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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福祉の理念について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  アメリカのハーマン・カーンは、日本はやがて二十一世紀には、アメリカを凌ぐ経済の超大国となっているだろうと予言した。それは、日本人の自尊心をくすぐるに十分であった。おそらく日本人は、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、さらに高度成長をめざしていくかもしれない。
 しかし、私は、そうした経済の繁栄は、どうもあまり意味がないように思えてならなくなった。それは、一人ひとりの立場でいえば、得たカネは、日々の生活のため、文化的生活の充実のために使っていくのが普通である。貯金をするにしても、いま借り家であるのをやがて自分の家を新築するためとか、不慮の出費にそなえて心配のないようにしておくとか、なんらかの前提があっての話である。
 ただ、カネを貯めることだけが目的で、そのために惨めな思いをし、苦労し、健康まで犠牲にするとすれば、拝金主義以外の何ものでもなくなってくる。日本人は、もう、そろそろこの異常ぶりに、みずから気がついてもいいのではないだろうか。
 個人の生活における生活の向上のための出費は、社会においては公共福祉への投資にあたろう。とすれば、福祉政策というものは、なにも特別なことではなくごく当たり前のことだといえる。……これまでは、当たり前のことが、生産力の低さのため、あるいは富国強兵という歪んだ理想へ横流しされたために、実現できなかっただけである。当たり前のことが、当たり前に行われる社会――これが正常な社会である。当たり前のことが行われず、たまに行われるとまるで政治の恩恵のようにいわれる社会は、異常という以外にあるまい。福祉政策を実施すること、福祉国家を建設することに対し、まだまだ、わが国には、なにか特別なことであるかのような雰囲気があることも事実である。
 だが、人間という本来の見地に立ってみれば、なんら特別なことではない。政治というものは、国民すべての生活を守りより向上させるためにあるのだ。これだけ大きな経済力をもちながら、それをせぬというのは、政治の怠慢なりという以外にない。国民は、当たり前のこととして、大威張りで政治に要求すべきである。
 ――これだけ働き、これだけ税金をとられ、食べものは高く、住む家すらもてぬとは、何ごとか、と。
 大気も、水も、汚れ放題。美しい自然は、破壊されっぱなし。これらは、すべて、甘やかされた大企業の横暴といってよい。そのために、国民がどれほど精神的、肉体的損害をこうむっていることか。これについても、厳しく政治の責任を追及すべきである。
 政治家は、公共の福祉を実現するために、なさねばならぬ仕事の複雑さを口実に、これを嫌う傾向がある。しかし、それをするのが政治の仕事であり、使命である。責任であり、義務であるといってもよい。そのために、政治家は、国民の労働から報酬を得ているのである。カネをもらって仕事をしないのは、背信行為である。
 結局、繰り返すことになるが、――福祉政策というものは、現代国家においては“お上の特別のおぼしめし”などではない。また、クジびきの“当たり”のような、偶然的な僥倖でもない。「国民のすべてが、その国家の置かれた諸条件のゆるすかぎり、最も人間らしい生活を営めるよう」政治というものが、なさねばならない使命なのである。
 問題は、主権者である国民がこのことを現実に認識するか、いつまでも過去の妄想の夢のなかに迷っているかの、一点にかかっていよう。

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