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日蓮大聖人・池田大作

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福祉の理念について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  公共福祉の増進は、現代のさまざまの国家の欠かせない政治目標となってきた。このように、福祉が政治の主要課題として現実性をもつにいたったのは、産業の高度な発達によって社会全体の生産力が余剰を生むにいたったことと、軌を一にしている。
 もとより、政治の一つの使命として福祉を考える理念は、古代国家においても認められる。しかし、それらは為政者である専制君主の個人的善意によって“特別のおぼしめし”として行われたもので、決して機構的に体系化されたものではなかった。したがって、為政者個人の死は、同時に福祉政策の終焉も意味したのである。
 今日、福祉社会、福祉国家の建設が目標となっているのは、社会、国家の制度的、機構的確立の問題であろう。少なくとも不測の事故が起こらぬかぎり、国民全員を平等に対象とし、世代を超えて受け継がれていくことを予想したものでなくてはならない。
 尾高朝雄氏は、この“公共の福祉”という理念を、次のように述べている。
 「国民のすべてが、その国家の置かれた具体的な諸条件の下で、できるだけ人間らしい生活を営み、勤労と平安の毎日を送り、しかも、仰いで文化の蒼空から心の糧を得るということは、一言にしていうならば『公共の福祉』である。それが国内法の窮極に在る理念である」(『法の窮極に在るもの』有斐閣)
 そして、氏は、この理念が、実現されていくための条件として、第一に政治――すなわち、国家権力の公正な行使による、実現化の努力、第二に経済――すなわち、生産力の向上、第三に、この生産能率の向上をささえる堅実な道徳の普及、さらに進んでは、文化、技術、衛生等の多様な目的と、それらの不断の調和が要求されることを指摘している。
 考えてみるとわが国の実情は、経済的繁栄、つまり生産性の向上を、あたかも究極の目標のようにして一切が進められてきた観さえある。政治はGNP――すなわち国民総生産高の高度成長のみをめざし、国民の“人間らしい生活”や“勤労と平安の毎日”などというものは、その目的を達するためには犠牲になるのもやむなしと考えられてきたのである。
 道徳もまたしかりである。わが国の高度経済成長を支えている最大の要因が、日本人の勤勉さ、生まじめな勤労精神、レジャーやムダを一種の罪悪とみるほどの、つつましやかな庶民の生活態度にあったことは――すでに広く、有識者から指摘されているとおりである。
 明治の開国以来、第二次大戦で敗北を喫するまでは、富国強兵という国家目標があり、そのために政治も、経済も、道徳も、集中され、吸収されていった。それは、敗戦によって挫折し、一種の空白状態におちいった。
 とはいうものの、戦後十数年というものは、日本経済の建て直しが焦眉の急であった。かつて、富国強兵のために燃やされたと同じぐらいの国民的エネルギーが、経済復興のために燃やされたのである。
 戦後二十数年の今日――経済力は戦前のレベルをはるかに上回るまでになった。戦前は、軍事力で“世界一流国”と自称したが、現在は、経済力で“世界一流国”と認められるようになってしまった。そして、国民大衆も政治家も、もちろん企業家も、経済力のさらに一層の強化をめざし、ますますガムシャラに働こうとしているのだ。
 人間は、何のために働くのか。経済の繁栄は、何のためであるのか。もし、経済繁栄のみが究極の目的であるなら、カネを儲けるために働くというだけで、その儲けたカネをどう使うか、ということは論外といわなければならない。モリエールの『守銭奴』は、今日の日本民族、一億人に対する痛烈な諷刺でもあろう。“エコノミック・アニマル”とは、その現代的表現にほかならない。
2  アメリカのハーマン・カーンは、日本はやがて二十一世紀には、アメリカを凌ぐ経済の超大国となっているだろうと予言した。それは、日本人の自尊心をくすぐるに十分であった。おそらく日本人は、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、さらに高度成長をめざしていくかもしれない。
 しかし、私は、そうした経済の繁栄は、どうもあまり意味がないように思えてならなくなった。それは、一人ひとりの立場でいえば、得たカネは、日々の生活のため、文化的生活の充実のために使っていくのが普通である。貯金をするにしても、いま借り家であるのをやがて自分の家を新築するためとか、不慮の出費にそなえて心配のないようにしておくとか、なんらかの前提があっての話である。
 ただ、カネを貯めることだけが目的で、そのために惨めな思いをし、苦労し、健康まで犠牲にするとすれば、拝金主義以外の何ものでもなくなってくる。日本人は、もう、そろそろこの異常ぶりに、みずから気がついてもいいのではないだろうか。
 個人の生活における生活の向上のための出費は、社会においては公共福祉への投資にあたろう。とすれば、福祉政策というものは、なにも特別なことではなくごく当たり前のことだといえる。……これまでは、当たり前のことが、生産力の低さのため、あるいは富国強兵という歪んだ理想へ横流しされたために、実現できなかっただけである。当たり前のことが、当たり前に行われる社会――これが正常な社会である。当たり前のことが行われず、たまに行われるとまるで政治の恩恵のようにいわれる社会は、異常という以外にあるまい。福祉政策を実施すること、福祉国家を建設することに対し、まだまだ、わが国には、なにか特別なことであるかのような雰囲気があることも事実である。
 だが、人間という本来の見地に立ってみれば、なんら特別なことではない。政治というものは、国民すべての生活を守りより向上させるためにあるのだ。これだけ大きな経済力をもちながら、それをせぬというのは、政治の怠慢なりという以外にない。国民は、当たり前のこととして、大威張りで政治に要求すべきである。
 ――これだけ働き、これだけ税金をとられ、食べものは高く、住む家すらもてぬとは、何ごとか、と。
 大気も、水も、汚れ放題。美しい自然は、破壊されっぱなし。これらは、すべて、甘やかされた大企業の横暴といってよい。そのために、国民がどれほど精神的、肉体的損害をこうむっていることか。これについても、厳しく政治の責任を追及すべきである。
 政治家は、公共の福祉を実現するために、なさねばならぬ仕事の複雑さを口実に、これを嫌う傾向がある。しかし、それをするのが政治の仕事であり、使命である。責任であり、義務であるといってもよい。そのために、政治家は、国民の労働から報酬を得ているのである。カネをもらって仕事をしないのは、背信行為である。
 結局、繰り返すことになるが、――福祉政策というものは、現代国家においては“お上の特別のおぼしめし”などではない。また、クジびきの“当たり”のような、偶然的な僥倖でもない。「国民のすべてが、その国家の置かれた諸条件のゆるすかぎり、最も人間らしい生活を営めるよう」政治というものが、なさねばならない使命なのである。
 問題は、主権者である国民がこのことを現実に認識するか、いつまでも過去の妄想の夢のなかに迷っているかの、一点にかかっていよう。

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