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日蓮大聖人・池田大作

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第三次大戦は阻止できるか  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  その一つは、現代の諸国家の指導者というものが、国民大多数の支持をもって初めて権力を行使できる立場にあることである。言うまでもなく核戦争の特色は、アメリカならば大統領のボタンを押す一本の指にかかっている点にある。もし、大統領が国民の正常な選挙によって指名されたのではない狂人の指導者であったら、事態は、絶望的である。しかし、少なくとも、国民の選択を受けた人物である以上、正常な判断力をもっているはずだ。
 人間は集団になると責任感がうすれていき、とかく暴走しやすいものだが、自分一人に全責任がかかっているとなると、たいがいは慎重になる。いわんや、その人が、核兵器について正しい理解をもち、大量殺人に対して、強い自制心をもっているなら、ボタンを押すなどということはおそらくできないのではないか。
 この事情は、ソ連の場合も基本的には変わらぬはずである。したがって、このことから結論できる戦争阻止のための第一条件は、政治指導者の選出にあたって、なによりも正しい判断力、健全な知性をもった、平和主義者を選ぶことである。社会体制に、平和主義というものを体現化することである。
 すでに、過去二度にわたって起こった大戦は、国民の総力を結集した“総力戦”であった。被災においてもまた前線と銃後の差別はなくなってしまった。朝鮮戦争やベトナム戦争は“代理戦争”であるがゆえに、アメリカ本土の被災ということがないにすぎぬ。もし、大陸間弾道ミサイルを使う戦争になれば、“銃後”こそ、最大の被災地になってしまうだろう。
 これは、戦線におもむく兵士たちの士気にも、大なる影響を与えずにおかない。昔から、自分の命を犠牲にしても……と覚悟して死地に向かったのは、自身が犠牲になって家族が、民族が、そして国土が救われるからであった。いかに勇敢に敵に突撃していっても、それとは関係なく後方で父母や妻子が無残に殺されると知ったら、だれがそんな愚かなことをする気になろうか。
 私は、指導者は、青年たちに“国を守る気概”をもつことを説くまえに、まず指導者自身が“民族を破滅から守る英知”をもつべきであると言いたい。民族の存続が世界平和にかかっていることは、おのずから明瞭となるはずだ。そして、世界平和のためには、みずから率先して武力を捨て、平和勢力を結集していく以外にないということも、もはや疑う余地はあるまい。
3  第二は、高度に発達した文明社会ほど、戦争によって受ける損害は、大きくなることを知らねばならないだろう。掘っ立て小屋なら、破壊され焼かれても、すぐに建て直すことができる。その被害も一応は少ない。しかし、近代建築の粋をこらし、豪華なインテリアを集めた家だと、驚くほどの被害になっていく。それが分かれば、戦争などという愚かなことは、文明の高い国ほどできるものではなかろう。
 第二次世界大戦によって生じた戦死者の数は、兵士だけで約一千万、市民を含めた死傷者の数は四千万と言われている。戦費は、約四兆ドル。これを米、英、仏、ソ、中、独、伊、日の関係八カ国の当時の人口で割ると、一人当たり三百八十八ドル、十四万円になるという。ただし、これは一九四八年ごろの換算であるから、当時の十四万円は、現在の百万円以上と考えてよい。しかも、戦勝国も敗戦国も、この戦争によって何を得たかを考えるなら、いかに愚かしいことかはあまりにも明白であろう。
 戦争によって、儲けるのは“死の商人”だけである。いや、彼らすら、これからの戦争では、なに一つ儲けられないにちがいない。おそらく彼らのつくった武器が彼らに向かって突撃し、彼らの掴んだ札束は、燃えさかる壁となって彼らに襲いかかるだろう。
 さらに、教育の浸透も、戦争に対する正しい判断力を養うことにより、重要な“歯止め”の役目を果たすことができるはずである。そのためには、教育内容が、戦争や戦争に献身することを讃えていく偏ったものであってはならぬことは、言うまでもあるまい。
 現代の世界に著しい反戦平和の叫びも、根底は、こうした教育と情報の普及に負っている。もし、民衆が平和への叫びをあげず、広範な大衆運動も起こさなかったとしたら、第二次大戦後、二十五年間もともかく大戦争の勃発を回避することはできなかったにちがいない。
 自己の生活と生命の安全を守りたいと願うのは、あるいは原始的な本能にすぎぬかもしれない。だが、発達した知性といい、高尚な教養といっても、要は、この本能から出た欲求を、いかにして叶えるかの道を知ることではなかろうか。この基盤から遊離した学問や文化は、もはや観念論と言うべきではあるまいか。
 過去の戦争は、そのほとんどが一部の権力者たちの野心と欲望のために、大多数の民衆を犠牲にして行われてきた。民衆は、みずからの権利を主張する術も知らず、かえって、そうした犠牲こそ英雄的であり、美点であるかのように思いこんできたのであった。
 現代は、この不合理を打ち破るべき時である。権力者や独裁者と同じく、無名の一庶民たりといえども、幸福を求め豊かな生活を願う権利をもっている。生命の尊厳は、社会的な身分や階級、地位にかかわりのない宇宙普遍の哲理なのだ。この理念を現実生活に確立することこそ、人間の究極目標といっても過言ではないと私は思う。
4  第三は、現代の科学文明が、もはやかつてのように、植民地や属国を必要としなくなっていることである。領土の拡張、勢力圏の膨張という戦争の最大の原動力が、今ではほとんど用をなさなくなってしまったのである。
 もとより、今日でも、この野心を捨てきれないでいる民族がないわけではない。しかし、科学技術の発達は、そうした過去の図式がもたらす富の何十倍、いなおそらく何百倍の繁栄を約束してくれることが実証されている。加えて、世界的な民族意識の高揚によって、植民地や属国を維持するには、たいへんな費用と国民の犠牲が必要となってきた。
 フランスは、インドシナやアルジェリアを植民地として維持するために、膨大な支出を重ね国威の失墜を招いた。ようやく、繁栄の方向に転ずることができたのは、これらの植民地を手放して、住民の自治に任せてからのことである。
 イギリスも同じように、大英帝国の威信を守るために苦悶をつづけた結果、広大な植民地を振るい落とすことによって、起死回生への道を求めている。言いかえると、今日においては、植民地や属国は、重荷でこそあれ、決して宝庫ではないことが証明されてきているのである。
 かりに、原材料を手に入れるにしても、正式な貿易取り引きによって購入する費用と、植民地収奪によって、それ自体はタダ同様でも、治安維持のための軍事的出費とを比べると、後者のほうがはるかに割高になってしまう。結局、泥棒稼業は、どんなにボロ儲けのようにみえても、儲からない仕組みになっているようだ。
 生産地の側にとっても、奴隷的に働かされるより、主体性をもって自己の利益のために働くほうが勤労意欲もわく。意欲がわけば、力も入り知恵もわく。したがって能率も、はるかによくなってくるのは当然であろう。
 第三次世界大戦が、起こりうるかどうか、ということは、現代人の重大な関心事である。もし起これば、この世界は破滅し、人類は絶滅することは間違いない。絶対に起こらないとは断定できぬが、起こりにくくなっていることは事実であり、その条件を考えれば、回避できる可能性も大きい。それは、人類の英知を信じて努力する以外に、どうしようもあるまい。

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