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日蓮大聖人・池田大作

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愛国心について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  愛国心――この蜜にひかれて、今まで幾千万の青年が、傷つき、斃れたことだろう。この言葉の放つ妖しい光に理性を失って、どれほど多くの民衆が、愛する者を死地に送り出してきたことであろうか。
 人は、悪魔とか、吸血鬼、殺人者という言葉には、それだけで恐怖をおぼえる。しかし、愛国心という言葉には、そうした恐怖や嫌悪感を与えるものはない。むしろ、人々は、熱い血潮のたぎりをおぼえ虫が灯火に引き寄せられるように、栄誉を求めて集まっていった。そして、この愛国心という言葉が、いかなる殺人者も、悪魔も、吸血鬼も、舌をまいて退散するほどの大量の犠牲者を貪ってきたことには気づこうとしなかったのである。
 自身が生きている国土、社会を愛し、それを侵すものから守ることは、自身の尊厳を愛することであり、人間として大事な問題でもある。そうした意欲も気力もなくしてしまった人間は、まことに憐れと言わざるをえない。その意味では、私は、愛国心というものの重要性、美しさ、気高さを少しも否定するつもりはない。
 まして、青年たちが、老いた父母やかよわい弟妹を守るために、楽しかるべき青春の命を投げだして、侵略する敵軍の前に突き進んでいく、その心情には一種壮絶な美があるということも十分に認めているつもりである。たしかに、幾つかの戦争は、そうした賛嘆に値するものであったろう。
 だが――悲しいかな、過去の戦争の八割、あるいは九割以上は、人々のこうした本来の愛国心とはまったく別の次元で、いわば為政者の利欲と虚栄と憎悪のために行われてきた。そして、戦争遂行のために、まず、為政者が青年たちの目先にちらつかせたのが、ほかならぬ“愛国心”の幻影だったといえまいか。
 本来、美しかるべき、崇高な理念であればこそ、青年たちは、そして庶民たちは、この言葉のまえに理性を麻痺させられ、われを忘れて戦場におもむいていったのである。為政者たちの老獪な知恵にとっては、無知の大衆をおどらせることなど、いともたやすい芸当だったにちがいない。
 元来、ヨーロッパないしキリスト教国における“国家”の概念は、キリスト教信仰の信念が裏打ちされている。これまで、国家という言葉がもっていた奇妙な吸着力の正体は、実は、このキリスト教的信念という粘着剤のせいであったともいえよう。
 近世の君主制時代には、王権は、神によって授けられたものとされた。このゆえに、神の恩寵を受けた君主には不思議な霊力があると信じられていた。そして、君主が巡行する先々に、不治の病に悩む人々が待ちうけて、君主の手に触れられようとしたといわれる。
 近代に入って、君主制国家は、次々と共和政体に変革していったが、――神の恩寵が自分たちの国の上にあるとする民衆の信念に変化はなかった。個人である君主に代わって、国家そのものが神の恩寵を受けるものとなっただけのことである。
2  余談になるが、この国家主義には、私は古代ユダヤ教、ひいてはその臭味を受け継いだキリスト教につきまとっている“選民思想”が濃厚に息づいていると思う。自国が神の恩寵を受けているというのは、とりもなおさず、この自分たちの民族、国民が、神に選ばれた民であるということだからである。
 トインビーが指摘するように、中世のキリスト教会への信念に代わって、近代以後は、国家主義や、イデオロギーが、絶対的信念の対象となっているのである。ちなみに、トインビーの近著『現代が受けている挑戦』(オックスフォード大出版局)によると「西洋ではキリスト教が衰退した後、代用宗教がキリスト教以降のイデオロギーという形で出現した。国家主義、個人主義、共産主義がそれ」であり、しかもこの「三つのイデオロギーのなかでは、国家主義が最も説得力がある」と言い、しかしながら、これらのイデオロギーは「各人が人生の途上で必ず直面する個人的な試練や苦痛、罪、失敗、死別等に際して人間に何の救済も与えてはくれない」としている。その上で「高等宗教の共通の使命は、個人を宇宙の諸現象の背後にある精神的実在に直接触れさせ、その実在と調和しながら生きさせることによって、個人をその属する共同体から解放」し、「人間にとって最も重要なこの分野だけは、今でも引き続き由緒ある高等宗教と哲学の領域となっている」と結論づけている。
 ここで、トインビーは、キリスト教にとって代わった三つのイデオロギーが、いずれもキリスト教義の中から生まれたものであることについては論及していない。つまり、これらのイデオロギーが、キリスト教と無関係なところからきたものであれば、ふたたびキリスト教が復活することも考えられよう。だが、このイデオロギーの成立――発展にキリスト教が深くからまっている以上、キリスト教の復活は、すでに不可能であると考えるべきだと思うのである。
 少し余談が長くなったが、ついでに、共産主義の問題にも若干ふれておこう。その一つは、本来、共産主義は「万国の労働者よ、団結せよ」と叫んだ――教祖、マルクスの意図どおりならば、国家主義、民族主義を超克できる理念であるはずであった。しかし今日、共産主義は、ソ連、中国、モンゴル、東欧諸国等々、各国の民族主義、国家主義に完全に隷従している。未来にも、超克できる見込みはないようだ。これも、マルクスの目論見の外れた一例であるといえまいか。
3  いま一つは、マルクスの唱えた、プロレタリア独裁理論が、やはり、ユダヤ教的、キリスト教的な“選民思想”の縛めを免れていないということである。また、これと関連するが、教条主義と修正主義との共産陣営の“内ゲバ”も、やはり“選民主義”に通ずるものをもっているとともに、かつての中世キリスト教会で行われた“異端論争”を、そのまま受け継いでいる点も見逃せない。マルクスはユダヤ人であったが、彼の思想がかくもユダヤ的であるのは、血は水よりも濃いということであろうか。
 ひるがえって、わが国の愛国心を支えてきたものは、ヨーロッパの場合とは、また、おのずから違ったものであることは言うまでもない。つまり、神道の“神国”の思想と、儒教の“忠君愛国”の倫理とが絡みあって、独特な愛国思想をつくりあげていたわけだ。
 言うまでもなく、日本全体を一つの国とする思想が定着したのは、明治以後である。中世戦国時代から、近世江戸時代においては、愛国心に相当するものは、自分の仕える主君に対する忠義以外になかった。このゆえに、武士たちは、主君が城替え、国替えで他の土地へ移ると、やはりそれについて、そこで、自分の昔からの主君に、忠勤を励めばよかったのである。それは、あくまで、主君と家来という人間的結合であり、きわめて家族主義的な倫理であったといえよう。
 世界的にみれば、これらとは、まったく違った、愛国心の形態もあるかもしれぬが、――いずれにせよ、こうした倫理が成立することができた基盤は、人間の生存の拠りどころが、この地球上のある限られた狭い土地にあったがゆえではなかろうか。また、国家というものが、人間生存の不可欠の要素と信じられたゆえであったといってもよいだろう。
 二十世紀の現代においては、“国家”は、もはや、自由に世界を動きまわることを妨げる障害でこそあれ、不可欠の要素では決してない。やがてSSTが就航すれば、東京、大阪間の新幹線と同じ時間で、太平洋を飛び越えてアメリカに到達していることになる。わずか、三時間ですむ旅のために、何週間もかけて渡航手続きをとらなくてはならないとしたら、まことに不合理もここに極まれりというべきだろう。
4  人間の知恵は、自然に関してはその壁を突き破って、素晴らしいスピード時代をもたらした。しかし他方では、国家という障壁を自分の手で設けて、あきれるほどの時間の浪費を強制しているのである。国家という不可侵の理念が、もはや過去の遺物にすぎなくなり、目覚めはじめた人々から追及を受けることを余儀なくされているのも、むしろ当然ではあるまいか。
 ――生活の基盤自体、現代人にとっては、国家よりも世界全体になってしまった。鉄をはじめとする鉱物資源も、石油等のエネルギー資源も、米、麦その他の食糧も、日本の国という狭い土地の中だけでは、まかないきれない。日本人に限らず、全世界の人々が――一部の未開社会を除いては――すべて、自分の国土の枠をはるかにはみだして、世界全体を基盤として生活を営んでいる。
 さらに、戦争のあり方も、自分の国土と同胞を守る戦さなどというものを、幻にすぎなくしはじめている。かつては、国民を守っているのだという誇りをもって、青年は戦線に向かった。ところが、飛行機が使われるようになってからは、青年たちが、前線で戦っている間も、いつ国に残した父母や妻子、弟妹たちが爆弾の雨を浴びるか分からなくなってしまった。
 それでも、飛行機のうちは、これを迎え撃つことができた。今日、米ソで開発競争が行われているミサイルは、それを超える精密な機能をもった迎撃ミサイルによる以外にない。こうした戦争では、人間の出る幕などなくなっていく。大陸間弾道弾や衛星爆弾にとっては、国境などなんの意味もないのである。
 ナポレオンは「人間にとって、最高の道徳は愛国心である」と、フランスの青年たちに呼びかけた。当時のフランスには、これも必要であったかもしれない。――だが祖国フランスを守るために立ち上がった青年たちは、結局、全ヨーロッパ征服の独裁者の野心におどらされていったのである。
 もし、かつての美しいままの“愛国心”の理念に当たるものを現代に求めるとすれば、それは世界全体を“わが祖国”とする人類愛であり、世界愛でなくてはならぬであろう。
 科学技術の文明に支えられた現代人の生活感覚にとっても、これはすでに、少しも飛躍ではなくなっている。
 現実は、はるかに進んでいる。それであるのに、理念の世界だけが、相変わらず数百年来の古めかしい城の中に閉じこもっているといってよい。この半ば、精神病院に似た城から、明るい現実の野や山に出て、事実を事実として見きわめる理性をもつことこそ、真の愛国心とは何か、を正しく理解できるためのイロハというものであろう。

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