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日蓮大聖人・池田大作

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大国主義の終焉  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  事実、今日、国家主義の退潮をもたらしたものは、単にこの一事ではなく、歴史的なさまざまの条件が重なっているからである。だがそれにしても、国家というものの至上権をひきずりおろす一つの重要な役割を戦犯裁判が果たしたことは、まぎれもない真実なのである。
 現代の世界を不安におとしいれている最大の元凶は、つきつめてみると大国主義ということになる。その端的なあらわれが、ベトナム戦争であり、中東紛争であり、チェコ事件である。そのほか、世界のどんな片隅で起こったクーデターも、アメリカのCIAとモスクワあるいは北京を本拠とする共産勢力とから、完全に無関係なものはないとさえ言われるほどである。
 この現実の不合理に対する反抗は、政治的次元からも、思想的次元からも、さまざまな形で巻き起こっている。国際政治の場においては、まずフランスがアメリカの傘下から独立を宣言した。ソ連のもとからは中国が、やはり独自の路線を確立している。これにともなって、いわゆる国際政治の多極化現象が生ずるにいたったのである。
 フランスにせよ、中国にせよ、彼ら自身、大国主義の偏見から免れていたわけではない。むしろ、こうした現象を生んだ原動力もまた、彼らなりの国家主義であり大国主義であったことは、十分に認められなければなるまい。
 したがって、これらの国々の行動が、結果的には米ソの大国主義を切り崩す力になったとしても、それは決して大国主義ないし国家主義そのものの崩壊にはつながらない。そこに招来されるものは、大国意識と大国意識の“さや当て”であり、民衆にとっては迷惑千万な戦国時代の再現でしかないようだ。
 言いかえると、そうした大国主義を倒すには、みずからの大国意識では不可能であることになる。では、何によるべきか。――結局、私は、世界平和、人道主義、生命の尊厳といった理念を至上の原理として、そこに民衆の力が結集されていく以外にないと考える。
3  理念によるということは、せんずるところ個人的な次元の問題に帰着する。国家主義全盛のもとにあっては、個人はいかにもかよわい存在と思われてきた。しかし、もはや国家主義の権威の失墜している今日、その偽りのベールの陰に隠されてきた個人の生命というものが、一切の前面に力強く躍動すべき時がきたといえよう。
 その前兆はすでに現れはじめている。たとえば、世界的に起こっている、青年を中心とする反戦、平和運動は、その一つであろう。青年たち特に学生は、反戦、平和の叫びを通じて、戦争を行う主体としての国家の権威に鋭い疑問を投げかけている。
 また、文学者や芸術家、科学者の活動も、すでに国家という狭い枠が障害でしかないことを明確に証明している。ソ連の作家の小説は、全世界に紹介され翻訳されて読まれているし、アメリカのジャズ音楽は、ソ連の若者を魅了している。世界全体が、もはや一つの文化圏となりつつあるのだ。
 たしかに、国なり民族によって、その考え方や生活様式には、複雑な差異がある。しかし、もし人間対人間として交際し、互いに知り合ってみるならば、かならず心の通じ合うものが見いだされるはずである。今日の世界的な文化交流は、この心の共鳴があればこそ実現しているのであり、文化的な交流が、さらに深く広範な心の協和音を奏でていくことも可能であろう。
 こうして国家に至上の価値を認める風潮は、しだいに過去のものとなりはじめている。今も、中年以上の世代は、国家のもつ圧力の呪縛から解かれてはいない。現代の世界は、その人々によって牛耳られている。しかし、青少年の大部分は、もはやそんな呪縛には見向きもしないようだ。あと三十年、五十年たって、彼らが一切の社会の主導権をにぎる世の中になった時、世界はどんなに大きく変わることであろうか。
 とはいうものの、人類の現状は、そのような遠い未来に希望を託して、ただ待っているわけにはいかぬことを痛烈に訴えかけている。だれよりも現在の指導者が、この事実に率直に目を開き、認め、そして従うべきであろう。恐るべき核兵器の破壊から人類を救うには、国家主義、なかんずく大国主義の偏見を、まず大国から潔く脱ぎ捨てることだ。
 時代は、新しい意味の“大国”の出現を要望している。それは、軍事力や経済力による“大国”ではなく、優れた理念と卓抜した指導力によって、世界を平和へ、地球民族としての結合へと導いていくオピニオン・リーダーである。
 あたかも、腕っぷしが強いゆえに“大将”になることができた少年時代から、頭脳と心の広さ、思いやりの深さによってリーダーが選ばれる成年時代に進んでいくのと、それは同じ道理であるからだ。

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