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日蓮大聖人・池田大作

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死刑廃止論  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  死ほど恐ろしきものはない。たれびとであれ、人の生命を断つ権利をもつものはいない。なぜなら、人間にとって、生存の権利は、最高無上のものであるからだ。もし、一人ひとりの生存権が至上のものであるならば、これを侵すことは、どのような大義名分があるにせよ、罪悪とならざるをえないであろう。
 ところが、人間社会は、生命の尊厳をもはや動かすことのできない根本原理として認めながら、今日なお、国家に対しては、その生命の尊厳を侵す権利を与えつづけているのである。これは、現代における最大の誤りであり、一切の矛盾と悪の根源は、ここにあるといっても過言ではないようにさえ思われてならない。
 国家にそのような権利を認めたのは、いわゆる絶対君主時代の名残にすぎない。それ以前は、神の代理としての“教会”に、この権限が与えられていた。近世に入って王権神授説の台頭とともに、神の代理人は、“教会”から“国王”に移っていく。してみると、一貫して、この権限を保持していた黒幕は、ほかならぬ“神”であったことが分かる。
 現代にいたっても、なるほど欧米の法廷では、証人が証言にあたって、真実を語ることを神に誓うといった形式が残されているようである。だが「神を信じない」という人々が激増しているときに、こうした形式が、果たして、どれほどの意味をもつものか、冷静に考えれば明白ではなかろうか。
 世界史のうえでも、最も残虐な死刑が大々的に行われたのは、中世から近世にかけてのヨーロッパにおける異端裁判、魔女狩りであろう。魔女狩りは、異端裁判の変形ということができるが、その犠牲者は、最盛期の十五世紀から十七世紀にかけて、約十万人に達したといわれる。
 動機は、簡単なことで、主として密告によったそうだ。いったん疑いをかけられると、徹底的に拷問が行われ、自白すれば、それを証拠として処刑された。自白しない場合も、悪魔が邪魔をして自白させないのだなどと判定されたというから恐ろしい。犠牲者のほとんどは、拷問で苦しめられるより、あっさり死刑にされてしまったほうが楽だという気になったのではなかろうか。
 いずれにしても、これはまったくの不合理である。これらの不合理は、形こそ変えているが、現代にも深くその根を残している。いくら科学主義といっても、人間は、しょせん不合理な存在である。およそ、日常生活においても、過ちを犯さぬ人間などありえない。誤った判断から、罪もない人間を死にいたらしめるならば、それは殺人罪を犯したことと同じになってしまう。
 近代人は、中世人の不合理を笑い非難する。しかし、中世人も、少なくとも当時はみずからを正しいと信じて疑わなかったのである。それを思うと、近代人の裁判のあり方に対する不動の信念も未来の人々にとっては嘲笑と非難の的にならないと、だれも断言できまい。
2  今日なお行われている死刑制度に対しては、こうした観点からも深い疑惑をいだかざるをえないのである。しかしながら私の主張したい中心眼目は、そのことではない。裁判がどんなに厳正公平に行われたとしても、死刑に処するということ自体が、根本的に間違っていると言いたいのだ。
 生命の尊厳と簡単にいうが、尊厳とは他の何ものによっても代えられないし、いかなる権力も侵すことができないということを意味する。もとより、その人が社会に悪をおよぼす場合、社会の人々の尊厳を守るためにその自由を抑制することはできるし、むしろ、せねばならぬといってもよい。しかし、その生命自体を断つことは、絶対に許されるべきでない。
 この生命の尊厳を単なる観念ではなく、事実の行動原理として具現したときには、戦争もまったく根絶するにちがいなかろう。個人の意思は、容易に左右できるものではないが、それが国家ないし社会の行動と密接に結びついていることも事実である。したがってまず、国家が、生命の尊厳観にたって、死刑や戦争といった殺人権を放棄することである。個人的な凶悪犯罪を一掃する道もそこから開けると私には思えてならない。
 私の知るかぎり、死刑がまったく廃止された社会は、歴史上、二つある。一つは、古代インドのマウリヤ王朝時代の、特にアショカ王の治世である。もう一つは、わが国の平安朝時代である。特に後者は、三百数十年にわたって、一切の死刑の行われなかった期間がつづいたといわれる。
 この二例に共通するものは、仏教が興隆し仏教思想が為政者に甚大な影響をおよぼしたという点である。政治の原理は慈悲に求められ、人々は、生命を断つということに対して、地位や権力を超えて深い畏れをいだいた。犯罪は激減し、平和な日々がつづいた。アショカ大王の名は、今日なおインドおよび東南アジアの民衆の渇仰の的となっているようである。
 元来、仏教は、生命の哲理を徹底的に究明し、生命の尊厳をこの世界に樹立しようとした教えなのである。キリスト教やイスラム教などにおいては、一切、神の意思によるとするが、仏教は、おのおのの生命の因果の法によるとする。主体は、あくまで現実に生き、働き、悩んでいる人間生命それ自体である。
 その生死を決定するものもまた、神などという抽象的、観念的な他者ではなく、因果の理法によって動く、自己自身にほかならない。そこには“代理人”などという、あいまいな権力のつけいる隙間がない。絶対的なものは、自己自身の内にあるからである。
 しからば、死刑を廃止すれば、犯罪が増えるのではないか等といった議論が出る。それは、この絶対的なものを、あくまで外に求める観念から、脱却できないでいるからだと私は考える。
 内なる生命に眼を開き、そこに逃れようとしても絶対に逃れることのできない“生命の法”があることを知ったとき、犯罪がいかに恐るべきかは、なにも刑罰で脅かさなくとも生命の奥底から瞭然とするはずである。

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