Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

平和憲法と日本  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  今日、再軍備を進め憲法の改定を主張する人々は、戦争の体験を忘れた健忘症か、戦争で甘い汁を吸った“死の商人”の手代としか、私には考えられない。国民は、戦争でまず犠牲にされるのが、だれでもない国民自身であることを、つねに念頭において彼らの言葉を判断すべきであろう。そうすれば、彼らの勿体ぶった論理の裏に隠されている、悪魔の爪は手にとるように見えてくるはずである。
 彼らは言う。――国民は国を守る気概をもたねばならない。泥棒に対して戸締まりをするのは当たり前のことだ――と。では、どこかにピストル強盗が入ったからといって、各人がピストルで武装しなければならないのか。いったい、戸締まりをするということが、どこで武装と結びつくのか、どうも不思議な論理になってしまう。
 少なくとも日本国民にとって、生命を脅かしてきた最大の敵は、外敵よりもむしろ自国の為政者であったことは、歴史上の明白な事実でなかろうか。外からの侵入者のために、犠牲を出したのは、七百年前の蒙古襲来の時ぐらいであろう。それ以外は、外国との戦争といえば、すべてこちらから仕掛けたものであり、そのための犠牲であったといっても過言ではない。
 古くは、神功皇后の新羅征伐から豊臣秀吉の朝鮮征伐、そして近代の日清、日露、日中、太平洋戦争にいたるまで、ことごとく時の権力者に徴発されて行った戦争であった。その間の幾百万あるいは幾千万の犠牲は、すべて戦争を起こした権力者の野望による犠牲であったともいえよう。とすれば、国民は外敵の侵入に対して、国を守る気概をもつより以前に、まず、為政者の野望から身を守る気概をもつほうが大事のようである。
 そして、この国民の“身の安全”を最も明確に規定しているのが、平和憲法の“戦争放棄”である。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言と軌を一にする基本的人権の擁護も、戦争放棄がなされて初めて究極的に実現されてくるだろう。
3  ちなみに、憲法の条文を引いてみる。
 第十一条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」
 また、第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。
 さらに第十八条には「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とも規定している。
 ところが、戦争というものを考えてみると、国家が戦争を行う以上、そこにはかならずみずからの生命と自由と幸福追求への権利を剥奪される、国民を生ぜざるをえないだろう。戦線において、生命の安全を保障するものは、何もないはずだ。……規律を第一とする軍隊に、自由が保障されないのも、むしろ自明の理であろう。職場や家庭から引き離されて、軍隊に入れられることは、幸福追求への権利を剥奪されることとまったく同義であろう。
 もう一歩、広げていえば、基本的人権というからには、それは一国家の民だけに限定したものであってはならない。なぜなら、基本的人権とは、国や民族を超越して、あらゆる人間存在を想定した概念だからである。もし、かりに敵国であれ、人間を殺してもよいとするなら、そこに基本的人権という理念は、成り立たないのである。つまり、戦争を認めるものには、基本的人権という言葉を、口にする資格すらありえないと考えるべきではあるまいか。
 こうしてみると、戦争体験という過去の問題をかりに抜きにしても、現憲法の戦争放棄の条項は、純粋法理論の当然の帰結ということができよう。基本的人権を唱えながら、戦争を容認している諸外国の法にこそ、最大の矛盾があると言いたい。この矛盾が、若い人々の不信を呼び起こし、世代間の鋭い対決と抗争を惹き起こしているのである。
 まして、これからの時代の動向をみれば、平和憲法は、人類が一歩一歩近づきつつある未来というものを、すでにいちはやく先取りした、きわめて稀有の法であったことが理解できる。戦争の愚かさを知って、軍備の強化よりも国民の福祉や国内産業の振興に力を注ぐ国がしだいに増えている。北欧諸国しかり、オーストリアやスイスもしかりである。
4  世界を二分する超大国、アメリカとソ連もまた、ゆっくりとではあるが、この方向に傾きはじめている。この二大国の場合は、彼らが、これまで開発競争を繰り広げてきた核兵器が、いわゆる最終兵器であって、簡単に使えるものではないこと、傘下の諸国に批判の声が高まっていることにもよる。いずれにせよ、国家間の紛争を解決するのに武力を用いることを愚かだとする時代に近づいている事実に変わりない。
 理念的には、生命の尊厳をすべての国家がその国民に対して保障しなければならない時代に入りはじめたと私は考える。政策的にも戦争に巨費を投じても失うものばかり多くて、得られるものはいかにも少ないことが常識化している。この両面の動機から、人類は、全体として戦争を放棄し、平和的に話し合うことによって相互の矛盾を解決する、一歩成人した段階に前進しているとみて、まず間違いないだろう。
 事実、戦争よりも平和を、外国への侵略よりも国内産業の振興を図ったほうが、はるかに幸福と繁栄への近道であることは、幾多の国によって証明ずみであろう。いな、日本自体よく考えてみると、平和主義のおかげで、想像もできなかった今日の繁栄を遂げることができた典型ではなかろうか。科学技術のめざましい革新と、平和なるゆえに蓄積された資本の増大が、これを可能にしたのである。
 人類の未来にあって、日本民族が果たすべき最も大事な道が、ここに明らかに敷かれている。それは、とりもなおさず、平和憲法の精神と理想とを、あらゆる国々、あらゆる民族の心に植えつけ、戦争放棄の人間世界を広げて、この地球を、宇宙を覆いつくすことである。

1
2