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日蓮大聖人・池田大作

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世界のなかの日本  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  日本は、かつて世界文明の“辺境”であった。だが未来には、新しい文化建設の“中心”となりうる、最も恵まれた条件をそなえているという人もいる。いや、その時代を、すでに現実に迎えはじめているのかもしれない。
 未来に“中心”となりうるというその可能性の条件は、これまで“辺境”であったことと密接に結びついている。その“辺境”は文明と無縁な“さびれた辺境”ではなく、摂取できるあらゆるものを摂取しつづけてきた、特異な辺境であったといえよう。
 世界の文明は、ことごとくこの小さな列島に流れこみ、いわばターミナル・ステーションの観を呈してきた。――平野の乏しい狭い国土ながら、それは非常に高いボルテージをもつ充電体であった。おそらく、日本民族ほど貪欲にいろんな文明を吸収し巧みに消化して、みずからの力に変えていった民族は、ほかになかったのではないかと私は思う。
 もしあえて、日本民族に匹敵する民族を求めるとなれば、ユダヤ民族が、それにあたるだろう。周知のように、ユダヤ民族は、自分の国土を失って以来、世界各地に離散し、それぞれの地で粘り強く生きぬいてきた。今、かりに、世界中のユダヤ人が一カ所に集まるなら、世界のあらゆる文化がそこに集結されるにちがいない。
 しかし、民族が文化を吸収した過程の姿は、ユダヤ人と日本人とはまったく対照的である。ユダヤ人は、みずから世界に散ることによって、それを得たといえよう。これに対し日本人は、この古来の国土にいながらにして、世界の文化を一身に集めたのである。
 したがって、日本民族の場合は、流入してきた外国文化を、どのようにして自身の特質と伝統とになじませるかという、いわば消化作用が行われて吸収されていったわけである。これにも、一方のユダヤ民族が“亡国の民”として、他国の風俗文化のなかにみずからをとけこまさねばならなかったのと、対照的な違いがある。
2  日本の歴史において、外国文化の流入としてはっきり記録されているのは、六世紀半ばの朝鮮からの使節の到来であったと思う。だが、それ以前、おそらく三世紀ごろには、九州と朝鮮半島との間に密接な文化交流が行われていたようだ。そして、さらにさかのぼれば、日本人の生活の基盤である稲作もまた、はるか大陸は中国南方から伝えられたものである。
 ただ、六世紀に始まった大陸との交流には、こうした前史的な出来事とは、やはり一線を画するものがあるとみなければならない。つまり、このとき日本はすでに一つの統一国家を形成しており、大陸の文化を主体的にとりいれる基盤を確立していたということである。事実、日本民族はただ受け身で大陸からの文化の流入を待つのではなく、みずから使節団を派遣し、強い姿勢で摂取しはじめた。それが、有名な遣隋使であり遣唐使であることは、今さら言うまでもあるまい。
 ところで、当時の中国文明は、それ自体が世界のあらゆる文化の縮図の観を呈していたという。特に唐の都・長安には、遠くユーラシア大陸の反対側にある、ペルシャやローマの文物、宗教まで到来し、華やかな国際都市を形成していた。当然、唐からの文化の導入は、こうした東西の文化を受け入れる結果となった。
 今、私たちは、ギリシャの神殿建築に好んで用いられたエンタシスの技法を、法隆寺の柱にみることができるし、正倉院の御物のなかには、ペルシャの琵琶が含まれていることを知っている。東西の文化交流は、予想以上に頻繁であったようだ。このような古代の昔から、日本というこの孤島は、世界の文化を貪欲に吸収してきたのである。
 日本民族は、ひとたび吸収したものを見事に消化し、独自の文化を生みだしていった。奈良朝時代の文化は、まだ模倣の色彩が濃いが、平安朝時代になると、すでに消化し創造している段階である。その文化の高さは、当時の世界のどの文明と比べても、決してひけをとるものではなかったといえよう。
 こうして蓄積された民族のエネルギーが、鎌倉時代の蒙古襲来を経て、――室町時代には、盛んな海外進出となり、さらに秀吉の指揮による朝鮮遠征となってあらわれたとみることができる。
3  秀吉に代わって政治的実権を握った徳川幕府は、日本人の海外進出も外国勢力の日本侵入も、ともに断ちきって、完全な鎖国政策をとった。わずかに、中国とオランダのみが、長崎港を通して交易を許されたのである。
 この徳川時代の間に、ヨーロッパでは産業革命に成功したイギリスが主導権をとっていた。つまりヨーロッパ諸国は、世界を植民地とし、略奪し破壊する単なる“南蛮”ではなく、科学と技術を中核とした新しい文明を伝える“使徒”となっていたわけだ。
 明治以後、日本人は門戸開放とともに、争って西欧の科学文明をとりいれはじめた。この西欧の学問の普及をもたらした、直接の原動力は、言うまでもなく鎖国によって遅れをとったという焦躁感であったと思う。もう一歩、掘り下げて言えば、そうした焦躁感をもちうるほど、民衆の知的レベルが高かったことも無視できない。
 鎖国による遅れを、俗に三百年の遅れなどというが、実際に産業革命の発火点となった蒸気機関の発明は一七六〇年のことであるから、この面だけからみれば、日本の立ち遅れは、百年ということになる。この蒸気機関が応用されることになった年代は、アメリカなどでも一八〇〇年代に入ってからだから、半世紀の遅れといってもよい。ただし、それを支えた種々の社会的条件という問題になると、単純に計算できる問題ではなくなっていくだろう。
 このように、文化の発展段階は、民族により、社会によってそれぞれ異なるから、これを比較することは困難である。加えて、この徳川時代の鎖国というものをよく考えてみると、それは、あくまで権力の力によって政策的、人為的になされたものであった。民族のもつエネルギーは、この閉じこめられた社会のなかで、隅々まであまねくゆきわたり、洗練された文化の育成と、次の爆発力への、高密度の凝縮に向けられたのであった。
 開国後の近代日本が、異常なほどの熱意とバイタリティーをもって、西欧の新しい文化を吸収していったのは、ここにその強力な発条があったからだといえる。この時の文明開化の見事さは、他のアジア諸国、ひいては、発展途上国と称される世界のどこの国も真似のできなかったことであり、世界の驚嘆の的となったことは周知のとおりである。
4  不幸にして近代日本の政治の誤りは、この愛すべき民族を侵略戦争にかりたて、あげくのはては破滅の谷底へ突き落とす結果となってしまった。民衆のエネルギーはまことに逞しいものがあったが、誤った方向に発揮されたのである。いわば、それはエンジンは優秀だったが、ハンドルに故障のある欠陥車だったといえまいか。
 第二次世界大戦の灰燼のなかから、日本民族は、ふたたび今日の繁栄を築いた。エンジンが強力なだけに、急な曲がり角にでもさしかかったらどうなることかと、危惧にたえない。今は、加速を少々ゆるめても、欠陥修正に力を注ぐべきであると思うが、いかがなものであろうか。
 ともあれ、日本は、現代の世界において、欧米とならんで技術革新の最先端に立っていることは間違いない。そして、すでに、一部の未来学者の予測によれば、二十一世紀には――アメリカをすら追いぬく可能性も秘めているそうである。
 ひるがえって、巨視的な眼で世界の文明の発展史をみるならば、過去の文明はユーラシア大陸の中心部、すなわちメソポタミア、インド、中国に発生し、大陸を舞台に交流し混合しながら、周辺地域に広がっていった。ちょうど、池の中心部に投じられた石がそこから波を起こし、その波が隅々にまで伝わっていくように、ユーラシア大陸の最も端の隅であるヨーロッパと日本に伝わってきたのである。
 この文明の波の最も技術的な部分は、西端のヨーロッパで花を咲かせ、最も精神的な部分は東端の日本で実を結んだ。なかでも、日本は近代以後、ヨーロッパの科学技術を学び取ることにより、両方をともに、みずからのうちにそなえることに成功したといえまいか。
 大陸の端にあるということは、かつては“周辺”を意味したが、交通機関の発達は、むしろこれを“中央”に変えようとしているといっても過言ではない。大量の物資の輸送に、今では海洋ほど便利なものはなくなりはじめているようだ。
 さらに、海洋資源の開発が進めば、資源確保の意味からいっても、日本は、宝庫の中に浮かんだ巨大な工場とさえいえそうである。未来は、あらゆる観点からみて、日本にとって、まことに恵まれた時代になりうるであろうし、また、われわれの努力によって、そういう時代にしていける可能性が多分にあることだろう。
 ただし、それは、決して日本中心主義のエゴイスティックな行き方によっては達成できまい。なによりも、一国の繁栄といっても、現代そして未来は、世界全体の平和と繁栄とに密接に結びついているからである。
5  それからもう一つは、日本自身も含めて、現代の先進諸国が直面している“人間喪失”の課題をいかに乗り越えるかである。これは、産業社会のなかでの機械と人間、組織と人間の間の問題であるばかりでなく、戦争や公害、世代の問題ともからみあって、複雑で、広範な根っこをもっている。
 もつれた糸をほぐすにも、どこに糸口があるかを忘れていじりまわせば、もつれはますますひどくなってしまう。現代文明にからまる種々の難問も、一つ一つのもつれにこだわっているかぎり、いつまで経ってもほぐすことはできまい。
 まず、糸口から始めて、根気よく取り組む以外にないだろう。この糸口こそ、私は、この日本にかつて打ち寄せ伝わってきた、偉大な文化の波のなかにあると確信するのである。

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