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日蓮大聖人・池田大作

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生命の環  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  大自然は、つぶさに観察すればするほど、その精巧さに驚嘆せずにはいられないような、複雑、微妙でしかも壮大な“生命の環”を構成している。まさしく、宇宙の大芸術であるといってよい。昔から、人間の英知は、みずからがその環の一つであることを察知し、巧みに生きる術を考え出してきた。
 たとえば、わが国の農家では、庭の柿が熟しても全部とりつくしてしまわないで、かならず幾つか残しておく習慣が伝えられているという。烏などがやってきて、それを食べる。やがて、糞といっしょに種がどこかにまかれることになるのである。
 また、やはり田舎の家に行くと、たいがいその天井裏かどこかに“ヌシ”といわれる青大将がいた。
 人々は、よほど蛇ぎらいでも、“ヌシ”は殺すべきでないとしていた。その青大将のおかげで、鼠の繁殖が抑えられ、したがって、収穫物が鼠に食われることから守られているからであると聞く。
 東洋人の間では、こうした先祖伝来の英知が慣習化してきた。そのため、真意が分からず、近代化とともに、意味のない“迷信”のように言われたこともあった。しかし、決して“迷信”ではなく、科学的な裏づけをもった、人間の知恵の結晶であることも少なくない。
 それに対し、全般的にいって西洋の風土は、東洋のような複雑な“生命の環”を形成していない。どちらかといえば、人間と自然とは征服し征服される関係にある。人間は、自然のなかに己の生きる道を見いだすのでなく、自然を制圧し追放して、人間の世界を別につくりあげていく。
 この東洋と西洋との違いは「石の文明と木の文明」として、端的に対比される。木と土と草で作ったアジア・モンスーン地帯の家と、石を積みあげてつくったヨーロッパ都市との差異である。前者は、自然のなかに融けこんで存在するが、後者は、自然を押しのけ鮮烈な境界線を立てて自己の存在を主張している。
3  また、アジアの庭園とヨーロッパの庭園との比較も、両文化の体質的な違いを明確に浮かびあがらせてくれる。アジア、特に日本の古い庭園は、そのまま自然のミニチュアである。ヨーロッパの、たとえばルーブル宮殿の庭園は、画然と引かれた幾何学模様の植え込みを特徴とし、あくまでも人工の巧みを誇っている。
 現代の科学技術文明というものも、結局はこうしたヨーロッパ的征服精神の一つのあらわれといえまいか。先進国とは、要するに自然を征服し追放して、人工化をどれだけ進めたかに対して与えられた称号のようなものであろう。
 自然を征服した人間は、これまで自然が処理してくれた問題を、同時に背負いこむ破目となった。――廃棄物や排泄物の問題である。排泄物に関しては、大量の人口が集中して生活する都市で、まず大きな悩みとなった。
 人口百万といわれた古代ローマでは、道路に捨てる者が大部分で、都市全体が不衛生きわまる状態にあったという。この点は、アジアの巨大都市、長安や洛陽では、農業用の施肥としてまわりの農地に還元されたので、そうした事態は起こらなかったようである。
 近世以後、ヨーロッパの都市においては、この問題の解決のため大規模な下水道がつくられていった。その後、科学の応用によって汚物処理も合理的に行われるようになり、この問題はだいたい卒業したとみてよい。今日の東京などの――わが国の都市は、処理設備の欠如から、あいかわらず悩みがつづいているが、これは政治の貧困に帰せられるべきであろう。
 いずれにせよ、科学技術の巨歩によって“自然を征服する”やりかたは、今日にいたって、大幅な修正を余儀なくされはじめていると考えたい。昨今のジャーナリズムをにぎわせている食品公害や農薬禍の事件も、そのほんの一例にすぎないようだ。
 ある意味で、現代人の心を最も強くつかんでいるスローガンは「自然に帰ろう」ということだともいえる。人工的なものが、便利さの半面、思いがけない脅威を与えはじめたからである。
4  田園の情緒をいろどった蛍やトンボ、蛙やメダカなどといった小動物は、農薬の普及につれてみるみる姿を消してしまった。そればかりか、その薬の中に含まれていた劇毒は、作物のなかに沈潜して人体に入りこんでいく恐れさえある。
 この難題を解くために、科学者たちは化学薬品でなく、天敵による病虫害駆除の方法を考えはじめている。もちろん、それには退治すべき病虫以外への影響も、十分に考えねばならないであろう。ただ、考え方の志向としては、私は正しいと思っている。それはとりもなおさず、自然界を組みあげている“生命の環”に着目した、いわば東洋の伝統的な発想といえよう。
 すでにこうした考え方は、医学の分野でも、若干、取り入れられており、たとえば化膿菌を殺すのに、一種のカビを応用してペニシリンが発明されたこともその一つである。また、伝染病の予防のため、あらかじめ少量の菌を人体に注入し、その菌に対する抵抗力を与えるというのも、そうだ。
 自然の開発にせよ、人体の健康にせよ、これからは、自然のリズムをいかに巧みにとらえ、それを活用していくかが、より重要な課題となっていくにちがいない。自然は、決して静止した“死”の世界ではない。生命の充満した巨大な有機的連合体なのだ。人間もまたその一つの環にすぎない。
 その“生命の環”としての自己を再認識したときに、宇宙生命の大海原と一体化した“新しい生命感”がわきあがってくるはずである。私は二十一世紀は、こうした生命観に立った、“生命の世紀”でなくてはならないと主張しておきたい。
 人間の真の幸福は、その基盤の上に――初めて樹立されていくのではあるまいか。

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