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日蓮大聖人・池田大作

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都市問題への提言  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  現代における社会問題の大半は、都市生活の矛盾から生じているといっても過言ではない。科学技術文明の進歩にともなって、都市への人口集中は急速に進行している。もし、科学技術がなければ、近代産業の誕生はなかったであろう。そして、現代の巨大な工業社会がなければ、人口のこれほどの集中も必要としなかったはずである。
 現代の巨大産業は、人間の集中を強力にうながしているとともに、一カ所に集中した膨大な人口の生活を支えもしている。産業革命以前の都市とそれ以後の都市との、決定的な違いがここにあろう。
 つまり、古代、中世の都市は、その大部分が生活の資糧の生産とは無関係な人々からなっていた。都市は、本来的に「住む所」であり生活を楽しむ場であった。
 産業革命後の――都市は、大部分が生活資糧の生産に従事する人々からなっている。産業は、都市の膨大な人口を支える基盤ではあるが、それ以上に産業こそ都市社会を土台として、その上に成り立っている面が強い。今日の都市問題の急所はこの人間と産業との関係性にあると、私は考えている。
 はっきりいって現代の都市行政の一般的な姿は、産業が主人であり、人間はその家来であるという考え方をとっている。つまり、都市は、産業を支えるために集結した人間の集合体であって、人間が、そのなかで伸びのびと豊かな生活を営むための舞台になっていない。「働く」場所ではあっても「住む」場所ではないのだ。
 なるほど、大東京に林立するモダンなビルは、いずれも冷暖房完備で、少しでも仕事の能率があがるよう最善の工夫が凝らされている。しかしそれらは職場のことであり働く場の話であって、住居では決してない。そんな至れり尽くせりのビルヘ通勤してくる、愛すべき社員たちの住まいはどうか。ほとんどが、都心から一時間も一時間半も離れた郊外であり、それも狭くるしいアパートか借家である。
 職場での、出世のための競争はあまりにも激しく、いきおい勤務時間を超えてまでも、仕事に精をだしていく。そこへ、一時間、一時間半と時間をかけての帰宅である。――だから、せっかく一カ月二万円ほど払って借りている“わが家”も、ただ寝るだけの、文字通り“ベッド・タウン”である。
 銀座や、赤坂、六本木といった歓楽地すらも、いわゆる“娯楽地帯”の概念からはほど遠い。そうした歓楽地を利用するのは、企業の交際費で客を接待する人々、つまり“社用族”である。少なくとも名目上はそうなっていよう。したがってこれらの歓楽地で遊ぶのも、楽しむための遊びではなく、実は本番以上に、真剣な生存競争の駆け引きの場なのではなかろうか。
 このような人々に対して、行政官庁は、懸命になって、住民の都市への愛情を呼びかけている。的はずれというべきか、虫がいいというべきかは知らぬが――人々にとっては空々しくしか聞こえなかったとしても当然であろう。
 郷土愛といい土地への愛情といっても、それが自分の物であって初めて実感がわいてくるのである。自分の住まいがもてるような施策も碌に行わないで、地域社会に愛情をもてといっても、とうてい筋の通らぬ話であろう。
 この土地の一部分が自分の物であるときに、初めて人々は実質的に地域社会への愛情をもつことができる。自分の家や土地をもつことの至難な社会にあって、苦心の末、手に入れた人々が、ほとんど異常なほどの愛情をもってマイホーム主義に走ったとしても、それは人情として無理からぬことではあるまいか。
2  今日、一部には“都市の危機”という穏やかでない言葉さえ聞かれるほど、都市社会はすさんでいる。もし、こうした都市の再建のために、住民のコンセンサスが不可欠であるとするなら――もちろん、私も不可欠だと考えているが――まず人々に、愛するに足る住居を提供することである。
 あるいは、少なくとも、暴騰に暴騰を重ねる地価を抑制して、一般庶民の手の届くところにおくことだ。だれでも少し努力すれば、土地を買い家を建てられる、あるいはマンションを手に入れることができる、というようにならねばならない。都市は、単に働くための場ではなく、住む所であり、生活する場所でなくてはならない。
 そのために、最大の努力を払うことによって、政治の威信も回復できようというものだ。市民の間に、急激に広まりつつある政治的無関心の風潮は、結局、市民の責任ではなく、彼らの期待に応えなかった政治が、みずから招いたものであることを知らなくてはならないだろう。
 新しい政党のあり方も、実はこうした市民の要望にどこまで応え、これをくみとって政治に反映していくかで決まる。職場社会の、労働者と資本家という対立図式にのみ、みずからを限定した階級政党は、もはやまったくの時代遅れとなりつつある。極論すれば学生の市街での紛争、たとえば新宿、羽田周辺での闘争に、かなりの数の一般市民が入っていた事実が認められているが、これなども、従来の階級観では律しきれぬ、新しい市民運動の萌芽とみることができよう。
 それは、警視庁や行政官庁が言っているような、付和雷同の「群集」ではない。政治の「市民不在」の姿勢がもたらした広範な市民の不満と不信とが、一つの契機によって噴出したものであろう。流れ出した熔岩はわずかかもしれないが、その発生の源は深く広大である。――今日の“豊かな繁栄を誇る社会”も、その底を掘り下げてみれば、一面、火の海と私はみたい。都市の危機とは、まさにこの薄い地殻の下に煮えたぎる岩漿の海を、からくも言いあらわしたのにほかならない。
 現代社会の疎外された大衆を砂にたとえるのは、ある面で的を射ている。ある面と条件をつけたのは、職場を中心にした見方では、砂というのはまったくあてはまらないからである。この視点からみると、人々は複雑にからみあい、相互に接合された鎖か網目の観を呈している。ただ、地域社会の住民という視点からみたときに、大衆は、まさに“砂”となろう。都市行政の直面する大衆像は、多くの場合この“砂としての大衆”である。
 砂は、水のように、洪水や津波となって襲いかかり、呑みつくし、破壊してしまうことはない。恐れるに足りない存在に思える。だが、絶えまなく吹きつける風にのって、目に見えぬが着実に周囲を侵蝕し、荒廃させていく。ときには、砂嵐となって一挙に襲いかかることもある。砂を砂のままにおくかぎり、この恐れは多分にあろう。もし、このうれいをなくそうと思うなら、水を十分に導入し潅漑し、草木の生い茂る沃土と化すことである。
 都市問題の、抜本的な解決の道は、まずこれ以外にないことを私は訴えておきたい。すなわち――産業革命以来の、人を働かせるための都市という既成概念をさっぱりと捨てて、人々が働きながらしかも生活をエンジョイできる快適な生活空間をつくりあげることである。そのためには、まず住宅の完全な供給と、健全な生活環境の整備充実が実現されなければならぬと思う。
3  最近、社会問題として、やかましく言われるようになったスモッグや騒音、河川の汚濁など、いわゆる都市公害などは、この観点からしても、なにをさしおいても解決されていかねばならぬであろう。もちろん人々が、この問題を決しておろそかにしているとは思われない。いろいろな立場から、深刻に悩んではいる。
 だが、残念なことに、公害の規制と企業の利益と、どちらを優先するかとなると、現状では、どうしても企業優先に陥ってしまうらしい。特に、この選択の主導権を握っている行政官庁が、企業に対して最も弱いということが致命的である。
 たしかに、企業は、地方自治体にとって強大なスポンサーであり、そのご機嫌をそこねると怖いことも分からぬではない。しかし、それは、あくまでも住民を個々バラバラの不統一な存在とみたときであって、もし、あらゆる住民が、一つに結束し、自分たちの生命を脅かす公害問題に対して、粘り強い闘争をつづけていくなら、どんな強大な企業といえどもかなうはずがない。
 もし、行政官庁が企業の鼻息をうかがって、あいかわらず住民の生命と健康に、背を向けていくなら、住民は、一致団結して強く強く突きあげることだ。人間生命の安全を守ることは、政治にたずさわる者の至上の使命である。それを無視することは、最も恥ずべき怠慢であり背徳だといっても、少しも過言ではなかろう。
 ――煙突に、煤煙を除去する設備をしたり、下水に流れる廃液を浄化する機構は、もとよりそれなりに金のかかることではある。しかし、毎年、少しでも見ばえをよくして商品を売るために研究を重ねているのであるから、その余力で、こうした設備をさらに改善していくことぐらいはたやすいことだと思う。素人考えのように言われるであろうが、絶対に守らねばならぬ規定にしてしまえば、いくらでも知恵はわくものである。
 工場を一軒の家庭にたとえれば、煤煙や廃液を少しも処理せず撒きちらしておくのは、便所なしで、道路に排泄しているのと同じことなのである。社会に生きる以上、企業といえども道義は守るべきである。企業だけが、特別にあらゆる横暴を野放図に許されているというのは、われわれ庶民の感覚ではどうにも納得がいかない。
 同じ原理で、こんどは都市自体も一つの生活を営む生命体である。上下水道を完備し、汚水や汚物を市の責任で処理して、河川や海などの自然を汚さぬよう心掛けることも、当然なさねばならない仕事である。これは、都市を単なる無数の市民の集合体とみるか、一つの有機的統一体とみるかの基本的理念の問題になってくる。
 ある予想によると、二十一世紀には地球上の総人口は六十億を超え、その約半数を都市人口が占めるだろうという。産業社会の進行と発展は、おそらくこの予想を現実化するにちがいない。
 二十一世紀は、都市問題の比重がますます増大こそすれ、少しも減少することはまずないだろう。都市問題について、今、抜本的なメスを加えなかったら、それこそ二十一世紀文明は、腐敗、堕落の泥沼に沈没してしまう恐れさえ多分にあろう。

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