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日蓮大聖人・池田大作

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世代の断絶  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  学生紛争が世界の各地にまきおこって、世代の断絶という言葉が、一躍、最新流行語となった。どうやら、この言葉の下には、反抗する若者たちを理解することもできないし彼らを説得する力もない、大人たちの諦めに似た気持ちが、潜んでいるように思われる。
 この現状に対して、良識派をもって任ずる評論家は、こう言う。――大人は若者の心を理解しようと努力し、若者も大人たちの言葉に耳を傾ければ解決するだろう、と。まったく、その通りかもしれない。しかし、私には、この警告はあまりにも第三者的であり、実情を知らぬ無責任な発言に思えてならないのだ。
 おそらく、実際に紛争解決に努力している人々からすれば、そんなことは当然すぎる話で、何度も試みてきたことだというであろう。――問題は、現在の若者たちの思考形式が、およそ自分たちの理解できる範囲外の原理に立っていることなのだ。逆に、若者たちは若者たちで、大人がどんなに懸命にうまいことを言おうと、腹の底では何を考えているかとても信じられるものではない、と考えている。
 簡単に言えば、両者はまったく信頼感を失っているのであろう。信頼のないところに、どんな“対話”も“約束”も“譲歩”も、意味をもたぬことは自明の理である。
 世代間のミゾは、いつの時代にもあった。考古学者の話によると、古代アッシリアの遺跡から発掘された粘土板にも「近ごろの若い者は……」という老人の嘆きが、記されているという。それだけ、人間の歴史は、つねに変わってきたともいえようし、反対に、幾千年たっても同じ嘆きを繰り返しているとみることもできる。
 私は、これはむしろ、人生の本源的な傾向に関係するものだと考える。つまり、老人になるほど人間は過去を想うのに対し、若者は未来を考えるものである。老人の想う過去は、若者が生まれる以前である。若者が考える未来は、おそらく老人が死んだ後の時代であろう。そこには、接点はまったくない。対話が成り立たなかったとしても、当然の道理といえまいか。
 だからといって、断絶したままでよいというつもりは、さらさらない。どちらが社会の主導権をにぎったにせよ、対話の場の喪失は、人間として不幸である。いわんや疎外された老人、抑圧された若者は、まさに灰色の人生であるにちがいない。
 では、どうすればこのミゾを埋められるのであろうか。老人も、若者も、それぞれの持ち味を捨てないで、むしろ存分にその特質を発揮しながら、しかも断絶のない社会というものが、果たして実現できるのだろうか。
 これは、きわめて困難な問題である。だが、私は、実現できると主張したい。ただし、私の考えているのは、単なる“対話”や社会体制の変革ではない。もっと根本的な、生きる姿勢の問題である。
2  結論からいうと、老いたると若きとを問わず、なによりまず“現在への意識”を最も大事にせよということである。老人は、いたずらに過去にこだわり、過去を基準に現在を批判してはならない。どうすれば、現在をよくできるかを基準にして、そのなかに過去を生かしていくのである。
 若者は、また、いたずらに未来の夢を追うのではなく、現在を正しくとらえ、そのうえに未来を構想すべきではなかろうか。頭が、あるいは過去に縛られ、あるいは未来に向かうのはやむをえないとしても、脚だけは、しっかり現在についていなければならないだろう。
 それを言い換えると、現在に対し責任をもっていくということではなかろうか。現在の大学紛争の原因も、根底的には価値観の崩壊などさまざまな要素があるが、少なくとも直接的には、指導的立場にある老人たちの無責任さにあるように思えてならない。
 たとえば、政治家なら、だれでも選挙のさいに公約を掲げる。ところが掲げた公約を、誠意をもって果たした政治家が、どれほどいるか。また、一国の首相として責任ある立場にありながら、国家の重要な問題について、一年前に言っていたことと一年後に話すこととが、まるで変わってしまっていることも珍しくない。
 国民の大多数がみずから投票しながら、政治家といえば不誠実の代名詞のように思うのも、無理はない。もし、政治家のように契約を踏みにじれば、事業家は詐欺の罪に問われるはずである。社会人としても、ウソツキの烙印を押されて、相手にされまい。しかも、こうした政治家の大部分が、六十歳前後あるいは、それ以上の老人層によって占められているのだ。
 若い世代の老人に対する不信は、ひいては老人支配の体制に対する不信でもある。若者たちの反体制的思考の起点は、ここにあると私は考える。もとより、百パーセントそれでないにしても、大半以上を負っているはずである。
 してみれば、この病根を除くのは、なによりも支配的地位にある人々が、民衆の信頼をかち得るにふさわしい任務への責任ある姿勢を確立することだと思う。誠意をこめて、現在というものと取り組むことである。
 青年、学生もまた、当然、現在に取り組まなければならない。しかし、現状としては、若者自身には取り組む意欲が十分あっても、既存の年功を重んずる、保守的な体制、慣習が、それを妨げている面が大いにあるようである。その観点からも、私の同情は、むしろ若い世代のうえに偏っていかざるをえなくなってくる。
 希望や理想、夢やビジョンを、何ももたない青春ほど寂しいものはない。いな、それは、もはや真の青春ではないといっても過言ではなかろう。しかし、その半面、遠くの夢を追うあまり、足もとの現実を忘れてはならない。現在から遊離した未来の理想は、現実からの逃避にすぎなくなってしまうであろう。
3  カーライルは「理想はお前の中に存在しており、障害もまたお前の中にあるのだ」(宇山直亮訳、日本教文社『カーライル選集Ⅰ』所収)と言っている。その通りである。すべては、自分という一個の生命の中に収まっているのだ。
 この自覚のもとに、時代と社会とに対し主体的に取り組み、改革し、建設していく人こそ、責任ある社会人といえよう。自分を時代の外におき、無責任な第三者の立場で批判するのでなく、責任ある主体者として振る舞っていくならば、世代の断絶などありえないと思うのである……。
 結局、世代の断絶とは、“無責任時代”の生んだ、責任のなすりあいの対立以外のなにものでもないように思えてならない。
 最後に、一言お断りしておきたい。くどいようであるが――世代の断絶を解消するということは、世代の差異がなくなることではない。初めに述べたように、人生の特質として、それぞれ、違いはどこまでも残ることは避けられない。ただ、それらが、おのおの適所を得て、全体としては見事な調和をあらわしていくところに、だれしもが願う、理想社会の姿があるのではなかろうか。

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