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日蓮大聖人・池田大作

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少数精鋭主義  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  企業競争が激化するなかにあって、少数精鋭主義という問題が、経営にたずさわる人々の関心を呼んでいるようだ。この原理は、これからもますます重要性をもっていくことであろう。
 言うまでもなく少数精鋭ということは、単に人数の少なさをさすものではない。この言葉の力点は“少数”ではなく“精鋭”にある。むしろ“少数”とは――たとえ少数であっても――という意味をもつと解釈するのが妥当でなかろうか。
 もう少し、積極的な観点からいえば、同じ心に立ち、互いに深く理解しあって団結していく姿をあらわしているともいえる。もし、一人一人が“精鋭”であっても、その心がバラバラであって、己の利益ばかり追っていたら、全体としての目的は達成できまい。
 たとえ多人数であっても、一人一人が“有能な精鋭”であると同時に、一つの目的のもとに強い団結をもち整然と進んでいくならば、それは少数精鋭ということができる。
 そのためには、目的観、理念、哲学がなくてはならない。身近な例でいうと、企業というものは利益の追求が目的である。しかし、同時にそれが、一企業を超えた社会全体のなかで、どのような価値と意義をもっていくのか。そうした使命感ともいうべきものがあってこそ、異体を同心とする強い絆が生まれるのであろう。
 企業のあり方の問題としても、私は、こうした企業を超えた理念の追求の有無が、いわゆる十九世紀的資本主義経済と、これからの時代の経済との相違点となっていくと考えている。企業人が、どこまでも十九世紀的な経済観念を超克することができず、繁栄のみを追求していく“エコノミック・アニマル”に堕するならば、社会の暗黒面はますます陰影を深めていくこととなろう。
 すでに、この問題は、リースマンやガルブレイスなど、幾多の社会学者、経済学者によって指摘され論じられていることなので、詳しく述べるまでもないと思う。ただ、その解決の方途として、より一歩高い目的観、理念、哲学を追求すべきであると示唆するにとどめておきたい。
 ところで、現実に、幾千、あるいは幾万の従業員をかかえている巨大企業の場合、少数精鋭の原理は、どのように適用すればよいのかという問題が残る。理想は、当然、前述したように、その数千あるいは数万の人々が、全員、精鋭とし心を一つにしていくことである。
 ただその中核として、優秀なリーダーが何人か団結して、全体をリードしていくことが肝心である。その意味でどんなに巨大な会社であっても、社長を中心に優秀な最高首脳部が呼吸を合わせ、強力に賢明に全体をリードしていくならば、立派に少数精鋭といえるであろう。
2  昔から“源濁れば流れ清からず”という名言がある。いかなる社会でも、その中心にある者の姿勢が全体に微妙に影響していくものである。中心がしっかりしていれば、隅々にまでその気風は、そのままみなぎっていく。
 昨今のわが国の実態は、中枢にある人々がみずからの姿勢を正さずに、国民大衆ばかりに、姿勢を正し団結していくことを求めているように思われてならない。
 後漢書・張綱伝の「豺狼路に当る、いずくんぞ狐狸を問わん」との一句は、まさに、今日のわが国の実態を言い当てているようだ。「豺狼」とは、最も悪質な人間をたとえている。「路に当る」とは、言うまでもなく、国家の政権の座にあるということだ。中枢がこうした悪人によって占められているときに、末端の小役人の不正は、むしろ当然のことであるとの意味であろう。
 逆に、末端にいたるまでの全体を浄化し統率していくためには、中枢を改めればよいということになる。これが、ポイントというものだ。
 一般に、現代戦争の勝敗を決めるものは物量とされている。第二次大戦での日本の敗北も、結局は物量の差であったとするのが、その代表的な例である。
 しかし、これは勝敗の要因の一部であっても、全部ではない。むしろ、人間の知恵と団結の方が、遥かに大きい比重をもっていると私は思う。現代において、それを明確に立証しているのがベトナムでの民族解放戦線であろう。事実、巨大な物量を惜しみなく投入していったアメリカの、このアジアの一角での敗退は、物量を絶対とする戦争観を、根底から揺さぶっているようだ。
 ひるがえってみると、物量より人間的要素に重点をおいた戦術の優位は、歴史上のあらゆる場面で証明されているともいえるのではないか。毛沢東の共産軍が、中国大陸において、強大な物量を誇った国民政府軍を次々と打ち破り、ついに制覇してしまったのも、歴史的な実験例である。
 孫子の兵法などに一貫してみられる戦いの原理は、少数精鋭主義であり、人間中心主義である。言い換えると、少数精鋭主義とは、東洋伝統の人間中心的な戦術思想である。これに対し、西洋の戦術の中核を占めてきたのは、兵員と物量とで敵を圧倒することであり、ここに、東洋的思惟と、西洋的発想との深い相違の断面をみることができよう。

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