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日蓮大聖人・池田大作

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個人と社会  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
4  ところが、個人と社会とを結ぶ物の考え方に視点を移すと、ここでも、一つの大切な問題がたちあらわれてくる。それは、たとえばフロム流に「……からの自由」にせよ、フランス人権宣言に規定している個人の尊厳にせよ、あくまで、社会に対する対立的思考から出たものだということである。
 元来、ヨーロッパ的思考は、神と人間、人間と自然、天国と地獄、神と悪魔というような“対立観”を基調としている。この淵源としては、古代ギリシャの明澄さを重んじた精神的伝統や、ユダヤ、キリスト教の二元論的世界観、そしてヨーロッパの風土のなかに受け継がれた生活態度などが挙げられるが、それはここでは触れない。
 現在に実相としてあらわれている、その結果が問題なのである。自然科学の発達も、こうした明澄さと、自己と世界あるいは人間と他の生物とを峻別する差別意識が根底にあって、初めてもたらされたものであろう。政治における権力支配の概念も、同じ発想の根をもっている。近代の個人主義思想も、やはりその一つのあらわれと思われるのである。
 私は、なにも、そうした対立的思考自体が悪いというつもりはない。ただ、対立で終わってしまっては、破壊と相互の滅亡があるのみで、なんのプラスにもならないことを私は訴えたいのである。対立はあくまで、調和と融合に達するための対立でなくてはならない。ところが、このような“調和”や“融合”の思考は“対立”と同じ次元のものであっては、単なる妥協になってしまう。
 “対立”を超えた、より深く、より高い次元での“調和”と“融合”であってこそ、“対立”の価値を存分に高めながら、しかも実りある結果を生み出していくことができるのではなかろうか。残念ながら、ヨーロッパの思想には、そうした高次元の“融和”の原理を説き明かしたものは、その影すら見いだせない。あえていえば、キリスト教の“博愛”が、その要求に応える任務をもって、説かれたのかもしれないが、哲学的にその基盤の強さの度合いを思考しても、歴史的な事実を考え合わせても、はかない幻にすぎなかったと言わざるをえない。
 その意味で、東洋哲学が、本源的に“調和”と“融合”の原理であることは、新しい社会と人間の原理を志向するうえに、貴重な示唆となるにちがいない。フロムのいう「……への自由」を実現する基本原則も、なによりもまず、“調和”と“融合”でなければなるまい。また、権利と義務のうち、権利が“対立”の思想に多分に拠っているとすれば、“義務”は“調和”“融合”を踏まえているといえよう。
 いずれにせよ、個人と社会の原理は、これまでのヨーロッパ的思考法の束縛から、いま一歩、脱皮して、より深いものを求めなければならなくなっているようだ。

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