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日蓮大聖人・池田大作

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個人と社会  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  このナチズムの台頭と同じ時代に、ナチズムの毒牙にかけられて悲惨な運命をたどったユダヤの血を引く学者E・フロムが、同じく自由についての鋭い分析を試みているのも興味深い。
 自由には「……からの自由」と「……への自由」があり、過去のさまざまな束縛からの自由をかちとった現代人は、かえって精神的な不安を覚えて――強力な支配体制を求めていく(『自由からの逃走』日高六郎訳、創元社)という彼の所論は、ナチの台頭が、きわめて深い人間性の弱点に根ざしていることを、えぐりだして示したのであった。
 結局、フロムの言う「……への自由」、すなわち主体的、積極的自由は、各人の生命の内に、外へ訴えるべき充実性があって、初めて現実的意味をもつといわなければならない。言論を抑圧するものからの自由は、社会的な変革によっていくらでも実現できよう。しかし、主体的な言論への自由は、まず自身のうちに訴えるべき内容がはぐくまれなくてはならないと思う。
 それは、社会の次元の問題でなく、人間性や思想、哲学の次元の問題ではなかろうか。マルクス流に言えば、下部構造の問題ではなく、上部構造の世界の問題である。現代人の不安感や挫折感を解決する道として、あくまでファシズム的な支配体制の再現を排除する以上、答えは一つしかない。個人の内面からの充実、各人の人格の確立を図ることである。
 言い換えると、これこそファシズムヘの暴走、人間の崇高な権利の放棄、さらに言えば人間の座からの転落を未然に防ぐ、根本的な対策でもあると考えたい。
 各人が、それぞれ他にかえられない特性、人格をもち、しかも互いに協調して社会全体としての秩序を保っていく――これが人間社会のあるべき姿であろう。
 単に、社会の秩序というだけなら、蜜蜂や蟻は、人間以上に見事な社会を構成している。しかし、彼らには、一匹一匹の、他に代えられぬ特性というものはきわめて薄い。また、そうした個体に、尊厳性を認めようとする姿勢もない。
 人間の人間たるゆえんは、秩序を重んじながらも、それ以上に個体の人格を最高に尊重し、敬意をはらっていくところにあるのではなかろうか。
 そうした人間のあり方を、明快に示した言葉として、私はいつもカントの「人倫の形而上学」の一節を思い起こさずにいられない。「同時に義務でもあるところの目的とはなにか」「それは、自己の完成――他人の幸福である」(尾田幸雄訳、理想社『カント全集第十一巻』所収)と彼は言う。
 少々、使い古された感じがするが、これ以上簡明に、しかも適切に表現した言葉を私は知らない。
 ただ、この問題は、理想を実現する具体的な方法を見いだすことである。自己の完成といい他人の幸福といい、それが崇高な理想であることは、たれびとも異存はない。それをどうすれば達成できるか、実行できるか。それが不明であるところに、人々の戸惑いと、ひいてはこの言葉自体に対する不満があるのだ。
3  カント自身は、敬虔なピューリタン信仰の家庭に育ち、彼の人格の基幹をなすものをもっていたのであろう。ところが、現代人は、彼には恐らく想像もつかないほど、無信仰の、粗暴で、不純な精神的環境のなかに生きている。人々の大部分は、信仰というものになんらの権威を認めていない。キリスト教自体が、人々の心をとらえる力を失ってしまっているといってもよい。
 現代に、なによりも要望される重要な課題がここにある。すなわち、個々の人々の生命の内奥から生きることへの自信と、喜びと、過つことのない進路を見る英知とを湧現する新しい宗教の信仰である。
 そして、この生の充実感を導き出すことのできる宗教こそ、現代人の心をとらえることのできる唯一の宗教のはずである。
 個人と社会という問題から、思いがけず、宗教と信仰の問題に入ってしまった。最初に断っておいたように、社会現象面でこのことをうんぬんするのが目的ではないから、当然のこととして了解願えると思う。しかも、昨今の種々の社会現象は、もはや表面的、技術的な思索や対策ではどうしようもない病根の深さを、まざまざとみせつけている。
 個人の権利のみを主張して、武闘を訴える青年、学生たち、無責任といわれる教授、権力を振りまわすことしか知らぬ政治家たち。いや、こうした問題だけではない。小さいところでは、青少年のフーテン化やさらには幼児遺棄等の事件にみられる母性愛を知らぬ女性たちも、この個人と社会の問題に深くつながっている。
 他方、大きいところでは、政治家にみうけられる公私の混同――というより公人たることを忘却した、単なる私欲の権化というべきかもしれない。
 さらに、世界を焦点において観察すれば、ここにまた世界という社会の中での国家や国家指導者たちのエゴイズムが、その醜い姿を画面いっぱいに広げて、眼の中にとびこんでくる。
 これらの問題を解決する究極の鍵は、しょせん生命の内奥の問題に取り組む以外になく、宗教や哲学にこれを求めざるをえないわけである。少し、唐突な結論の出し方のように思われるかもしれないが、これまで社会的、政治的な現象面の立場から行われてきた解決への努力が、ことごとく水泡に帰してきたことを思い浮かべるなら、容易に納得できる問題だと私は思う。
4  ところが、個人と社会とを結ぶ物の考え方に視点を移すと、ここでも、一つの大切な問題がたちあらわれてくる。それは、たとえばフロム流に「……からの自由」にせよ、フランス人権宣言に規定している個人の尊厳にせよ、あくまで、社会に対する対立的思考から出たものだということである。
 元来、ヨーロッパ的思考は、神と人間、人間と自然、天国と地獄、神と悪魔というような“対立観”を基調としている。この淵源としては、古代ギリシャの明澄さを重んじた精神的伝統や、ユダヤ、キリスト教の二元論的世界観、そしてヨーロッパの風土のなかに受け継がれた生活態度などが挙げられるが、それはここでは触れない。
 現在に実相としてあらわれている、その結果が問題なのである。自然科学の発達も、こうした明澄さと、自己と世界あるいは人間と他の生物とを峻別する差別意識が根底にあって、初めてもたらされたものであろう。政治における権力支配の概念も、同じ発想の根をもっている。近代の個人主義思想も、やはりその一つのあらわれと思われるのである。
 私は、なにも、そうした対立的思考自体が悪いというつもりはない。ただ、対立で終わってしまっては、破壊と相互の滅亡があるのみで、なんのプラスにもならないことを私は訴えたいのである。対立はあくまで、調和と融合に達するための対立でなくてはならない。ところが、このような“調和”や“融合”の思考は“対立”と同じ次元のものであっては、単なる妥協になってしまう。
 “対立”を超えた、より深く、より高い次元での“調和”と“融合”であってこそ、“対立”の価値を存分に高めながら、しかも実りある結果を生み出していくことができるのではなかろうか。残念ながら、ヨーロッパの思想には、そうした高次元の“融和”の原理を説き明かしたものは、その影すら見いだせない。あえていえば、キリスト教の“博愛”が、その要求に応える任務をもって、説かれたのかもしれないが、哲学的にその基盤の強さの度合いを思考しても、歴史的な事実を考え合わせても、はかない幻にすぎなかったと言わざるをえない。
 その意味で、東洋哲学が、本源的に“調和”と“融合”の原理であることは、新しい社会と人間の原理を志向するうえに、貴重な示唆となるにちがいない。フロムのいう「……への自由」を実現する基本原則も、なによりもまず、“調和”と“融合”でなければなるまい。また、権利と義務のうち、権利が“対立”の思想に多分に拠っているとすれば、“義務”は“調和”“融合”を踏まえているといえよう。
 いずれにせよ、個人と社会の原理は、これまでのヨーロッパ的思考法の束縛から、いま一歩、脱皮して、より深いものを求めなければならなくなっているようだ。

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