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日蓮大聖人・池田大作

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慈悲の医学への提言  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  ――一昔前には、なんでも気軽に相談にのってくれ、いざ病気になると、なにをさておいても、すっ飛んで往診に駆けつけてくれた医者がいた。権威や名声のある医者ではない。名もない、貧しい医者である。貧しい人を相手に、まるで身内のように面倒をみてくれた。
 むろん、こういった医者は、今でもいることであろう。しかし、巨大な病院、優秀な設備が整うにつれ、医師から人間性が除去されつつあるように感ずるのは、私一人の思いすごしであろうか。
 かつてのそうした医者は、あるいは俗にいう“ヤブ医者”と呼ばれていた人々であったかもしれない。しかし、私はそうした“民衆の中の医者”に医者の頼もしさがあったと思う。自身をなげうって――患者と苦痛を共にして激闘する医者のなかに“人間”を見た思いがし、崇高ささえたたえていたように思えてならない。
 医学の発達は、本当にうれしいことだ。どこまでも発達して病気の絶滅を図っていってもらいたい。しかし、科学的、合理的という名のもとに、医師の“人間性”が抜きとられていくことに、耐えがたいような悲しい気持ちをどうしようもない。
 膨大な医学書もあろう。精緻をきわめた設備もあるであろう。しかし、人間一個一個は、まったく独特の存在である。むろん、器官、組織が生物学的に違うわけではない。にもかかわらず、一人一人は、皆、違うのである。医学書は、患者の“人間”を解明してはいない。その“人間”に迫っていくのは、同じ医師自身の“人間”以外にあるまい。
 医学の理論は普遍的なものである。しかし、実際に、医師がぶつかる患者は、個々の存在である。この普遍性と、個性とをつなぐ懸け橋――それが、私は、医師の“人間”であるとみたい。
 患者の、医師に対する信頼度は、絶大なものがある。これは、かつての有名な話であるが、日本の医師界の権威、冲中重雄博士の誤診率が、一四・二パーセントであるというのが、報道されたことがある。
 これは、大変な成果であり、それを知る医師は、その少ないのに驚いたが、患者は、その多いのに驚いたそうである。ここに、医師と患者との心理の差がある。
2  ともあれ、医術は、やはり昔も今も変わらぬ“仁術”であろう。そして、医師のよって立つ基盤は、理性の座であるとともに、それ以上に人間の座でなくてはならない。いな、生命の座といってもよいだろう。
 信頼と等価のものは、愛情しかない。仏法は、この愛情というものを、より深く慈悲と説いている。慈悲とは、抜苦与楽の意であるが、その苦を抜き楽を与えることに、医学の本来の目的があるような気がしてならない。
 私は医学に造詣が深いわけではない。しかし、少年期より身体が弱いために、病気で苦しむ人の気持ちが、ひしひしと迫ってくるのである。人間一人一人、かけがえのない生命である。それを蘇生させる医学、医術は、まさに慈悲の体現でなくて何であろう。
 私の言っていることは、少なからず古めかしい表現かもしれない。しかし、近代的な合理的な“白い巨塔”に、この美しい精神がいつまでも失われないでもらいたい、と祈る一人である。
 医学のたどってきた道は、人間勝利の輝かしい道程と思われた。だが、果たして、本当に“人間の勝利”だったといえようか。人間性の一面、すなわち“理性”の勝利だったのであり、人間の全体性のそれではないように、私には思われる。その一分の勝利に酔いしれている時に“人間全体”の敗北の姿さえ、のぞかせてしまったといえるようだ。
 私は新しい医学への示唆として、慈悲の医学を提言しておきたい。“苦を抜き、楽を与える”――この簡単な言葉の中に、生命の学としての医学の復権の道があると、信ずるからである。
 ここに一人の病者がいる。その病気を克服する力は、結局は、患者の生命の中にあるともいえる。その生命の力を引き出すためには、限りない激励が必要であろう。単なる言葉ではない。医師自身の人間性が、病める人をいかに、力強い響きで、勇気づけていくことだろうか。
 また、この抜苦与楽ということをさらに応用して考えれば、苦を抜くとは、病苦の克服であり、楽を与えるとは、健康の増進であるともいえよう。医学は、慈悲という基盤に立つことによって、この両者を満足させるものとなるのではあるまいか。
 苦悩の解決のみでなく、進んで生命を溌剌たるものにしていく。――ここに、未来医学の課題があるように思えてならない。
 単なる慰めではない。厳しい現実に立ち向かう生命の力強い鼓動、調和あるリズムをつくり伸ばしていけるようでなくてはならない。慈悲とは、本来、強い積極的な姿勢なのだ。
 法華経という経文には、仏を良医に譬えている。最高の慈悲の人格を――仏というのである。仏像や絵像をさしていうのではない。現に生きる人間精神のなかに、慈悲が貫かれることが仏法である。
 医学の再生の道は、人間再生の道である。それはまた、病める社会の再建の道であるかもしれない。

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