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日蓮大聖人・池田大作

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素粒子の世界に思う  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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3  これらについては、私も興味があるので、わずかに頭を突っこんでみたが、専門家では毛頭ないし、恥さらしになるので省略したい。ただ、あの素粒子の大家である、湯川博士が「毎日新聞」の「現代学問論」という連載の対話の中で「自分の素粒子の研究は、暗い闇の中を、うろうろしながら、手さぐりで探しているようなものだ」という意味のことを述べていた。それには、私でさえ、いささか驚いたしだいである。
 それほど、素粒子の世界は、複雑多岐で、未知の暗闇が広がっているものか――私はこの一文を読んで、深い感慨にふけったのである。
 過去、幾十世紀にわたり、どれほど多くの科学者が、物質の根源に迫ろうとしてきたことか。そして、そこには、かならず単一の何かに突き当たるという確信があったはずである。
 しかし、その根源は、決して単一ではない。また、静的な定常的なものでもない。それこそ、ダイナミックな激動の世界であった。そのカオスは、狭められるのではなく、広がっていく一方である。いわんや、素粒子と時間・空間の問題は少しも解決されず、これからの問題として、科学者の前に立ちふさがっているのである。
 しかし、このミクロ(極小)の世界を離れて、マクロ(極大)の世界はありえない。またカオスの世界を離れて、秩序整然たる森羅万象は、ありえないのである。その関連に、あまりにも不思議を感ずるのは、私一人だけではあるまい。
 私は、なにやかや思いをめぐらしているうちに、一つの考えにぶつかった。それは、科学というものは、“生々流転”の現象を追究している学問である以上、どこまでいっても変転をまぬかれないのではないかということである。
 ミクロであれマクロであれ、物質の世界は、仏法にいう成住壊空の、生々流転を繰り返す変化の世界である。この現象の世界を同次元で追究していくかぎり、それは、単に現象をより細分しているだけとなろう。しょせん、流転する現象の底に流れる本源――仏法はこれを常住の世界と説くが――不変の当体はとらえられまい。常住の世界を開くものは、科学の使命ではなく、むしろ哲学の使命ではあるまいか。
 ちょうど科学において、マクロの世界の法則がミクロの世界にあてはまらぬように、哲学の思惟で森羅万象の奥にあるものを探るには、別の法則が必要なのかもしれない。
 素粒子の世界に思いを馳せているうちに、いつのまにか哲学にまで飛躍してしまった。私の頭も、どうやら、静から――動へと変化していたようである。

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